ひまわり先生のひとりごと (2004年9月) |
2004年9月6日 |
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先日、父の話を聞いていて、
「同じ現実を生きていても、物事の捉え方一つで、幸せにもなるし、不幸にもなるんだなー」
と、しみじみ考えさせられた。
その話とは・・・。
実は、少し前に、私は父に、
「お金は貯めてばかりいても、死に金になってしまう。
お金は幸福に生活するために、稼ぐもの。
預金通帳の残高ばかり増えても、日常生活が不自由だったら意味がない」
と説教をした。
それが響いたらしく、珍しく父は「自分の楽しみのために、お金を使おう」と決意し、
映画を見に行くことにしたらしい。
ところが、見たい映画は、午後からしかやっていなかった。
「じゃあ、ランチを食べて時間をつぶして・・・」
ということで、彼は行きつけの店に行ったのだが、残念ながらここも閉店していたらしい。
そこで、新しい店に入り、おいしいものを食べ、旅行のパンフレットをゲットし、
デパートをぶらついて、北海道展で生まれて初めてというくらい
おいしいとうもろこしを食べ、土産を買って、映画を堪能して、家に帰ってきた。
もちろん、土産のとうもろこしはありがたく家族全員で頂戴し、
「とっても、おいしいね。ご馳走様!」
と堪能したことはいうまでもない。
…とまあ、事実だけを書くとそんな一日だったらしい。
私がこういう一日を過ごしたら、たぶん、こんな感想をいうに違いない。
「映画の時間が午後で、行きつけの店が閉店だったので、ちょっとがっかりしたけど、
災い転じて福となる・・・っていうのは、こういう日のことをいうのね。
新しいランチのお店を発見できて、おいしいとうもろこしを食べて、
土産も家族に喜んでもらえて、ほんとにいい一日だったわ。
時間が余ったお蔭で、旅行のパンフレットもゲットできたから、
これはきっと、神様が「旅行に行きなさい」と後押ししてくれているのねー」
しかし、父の感想は、
「今日はとてもついてない一日だった。
映画にも、店にも振られ、お金を散在することになった。
きっとこれは、誰かが、「お金を使うな。お前なんか遊ばせないぞ」
と、俺の邪魔をしているに違いない」
だった。ついでに、冗談ではあるが、「ケチだった妻の祟りだ」とも言っていた。
話を聞きながら、
「そっかー。
私は、こういう両親の元で育ったから、昔は同じようなマイナス思考にハマっていて、
不幸だったんだー。
大人になってから、考え方を変えていく訓練を強制的にしてきて、本当によかったなー。
やっぱり、人間、考え方一つ、行動の仕方一つで、不幸になったり
幸せになったりするものなのねー」
としみじみ実感した。
父のみならず、ひまわりに相談にこられる人々の行動パターンを見ても、
「この人、自ら、不幸の中に飛び込んでいってるなー。
それに、自分のやり方や考え方に執着するあまり、不幸から脱出できないんだなー」
と思うことは多々ある。
たとえば、相談にこられた方に、私はよくこんな話をする。
「何か行動しようと思うときに、ものすごく大変な障害が予想されるならば、
行動する前に、自分の心を振り返ることです。
辛い道でも、目的があって、どうしても進みたいならば、
「私の目指すものがあるから、私のためにがんばる」と、自分のために自分で
「大変の中に身を投じる」覚悟をすることです。
自分で納得できた道ならば、辛さは減ります。
辛い道で、なおかつ、自分自身も嫌々進むのであれば、
それは、「あなたが行くべき人生の道」ではありません。
さっさとあきらめて、新しい道を探しなさい」
簡単なことだけれど、日常の小さな出来事一つ一つに、こういう決断ができることが、
知らない間に「幸せな人生」を歩けるようになるコツだ。
でも、こういう「簡単だけれど一番大切なこと」に限って、できないものだ。
また、病気をしている人の中には、「本当に大切なこと」を見失ってしまったために、
無駄なお金と労力を使って、結果的に命を落としてしまう人も、少なくない。
例えば、ひまわりに問い合わせをしてくる人の中には、
高価な健康食品やサプリメントには一ヶ月何十万円のお金をかけるのに、
相談料はケチって、受付の者から必要最低限の情報を聞き出して済まそうと
考える人も少なくない。
そういう問い合わせがあったと聞くと、「これも縁だから、仕方ない・・・」と思いつつも、内心、
「ちょっと相談してくれれば、上手に病気や病院と付き合っていく方法を
教えてあげられたのになー」
と、とても悲しくて残念な気持ちになる。
大切にするもの、注目するものを間違えたために、幸せを逃すばかりか、命を逃す.
「人生の分かれ道」は、案外、ほんのささいな小さな日常にあるのかもしれない
・・・と思う今日この頃。
できるだけたくさんの人が、「自分にとって本当に大切なこと」を見失わずに、「気持ちよく生きられる道」を選んでいって欲しいと願わずにはいられない。
せめてものアドバイス。
「迷ったときは、人の意見ではなく、自分の心の一番奥深いところで望んでいることを
最優先にしてね。それが本当の答えだよ!」
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2004年9月13日 |
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最近、久々にシリーズ本にハマっている。
ハマるとなると、とことんハマってしまう私は、関連書籍を40冊近く買い占めてしまった。
ただ、とっても面白い本なのだが、いかんせん、本全体に流れている
「波長のようなもの」が低め。
なので、長く読んでいると、難しい仕事をしているときと同じくらいのエネルギーを
消耗することに気がついた。
なので、試しに、他のジャンルの本をいろいろ読んでみた。
すると、それぞれの本を読んだときに、体や心が感じる感覚が微妙に違うことがわかった。
例えていうと、「着なれた色や形の服を着ていると安心するが、
好みでない色や形の服を着たときに、微妙な違和感を感じる」というのに近い感じ。
ちなみに、一緒にハマって読んでいた妹は、寝る間際まで読んでいて、
「不眠&寝覚めが悪い」状況になったらしい。
そういえば、私も、なんとなく寝る直前にこの本を読むのはよくない気がして
(いつもはハマると、夜更かししてでも読むのだけど)、寝る一時間前には読むのをやめて、
念入りに心の浄化をしてから休むようにしていた!
今回の一件で、
「人間というのは、知らず知らずのうちに、いろいろなことの中から影響を受けているんだなー」
と、実感し、なかなか興味深かった。
ところで、この本を読んでいたら、とってもマイナーだけど、いいパワースポットの神社の話が出てきた。
俄然興味が湧いた私は、すぐさま本屋に走った。
とはいえ、とてもマイナーな神社なので、神社仏閣のガイドブックにも
載ってなさそうな感じ。(地元でも知られてない小さな神社らしい)
「さて困ったなー…」
と、思いながらも、とりあえず、数ある普通の旅行ガイドブックの一冊を何気なく手にしたら、どんぴしゃ!
小さくですが、載ってました!!
しかも、場所を調べると、なんとなんと、出張のついでに寄ろうか?
と迷っていた神社の隣にあるというではないですか!
「これは、伊勢神宮、大宮の氷川神社に続いて、「神社に呼ばれた」パターンだ!
これは、行くっきゃない!」
と、決心を固めていたところに、速読が得意で私に先んじて、シリーズを全部読破してしまった妹が一言。
「お姉ちゃん、全部読み終わる頃には、OO神社も行きたくなると思うよ、絶対!」
はてさて、どうなることやら?
しかし、年間の講演の1/3は確実に寺関係だし、
出不精の私が旅行に出かけるとなると、ほとんど神社関係だし、時々、
「私、職業なんだっけか?」
と思う私なのでありました!
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2004年9月27日 |
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先週、老人保健施設で、たくさんの年配の方々の悩み相談を受けた。
ほとんどが、
「家族からこんな意地悪なことを言われた。スタッフがこんな失礼な態度だった。
他の入居者からこんなひどいことをされた。
こんな私には、不幸な未来しかありえない」
という、周りの人や環境に対しての不満や、未来への不安の話だった。
年をとって、2−3mの距離を歩くこともままならない体になった上、
施設という新しい環境に身を投じるのは、本当に、辛いことに違いない。
それでも、よくよく話を聞いてみると、嫌な出来事は確かに日々あるのだけれど、
実際に、その「嫌な出来事そのものが起こっていた時間」は、ほんの一瞬に過ぎないようだった。
そして、それ以外の時間、彼らの目の前には、
「美しい緑、おいしい食事、温かいお風呂、ゆったりしたベッド…」などの
「ささやかな幸せ、美」が確実に存在している。
でも、彼らの心の目には、「目の前の確かな現実」は、まったく映っていない。
つまり、現実には存在していない「過去の一瞬の嫌なこと」
「怒るかどうかもわからない未来の不幸」を何度も何度も頭の中で、反芻することで、
「自分自身の手で、人生のほとんどを「嫌なこと」で満たして」しまっているのだ。
人生の終焉に近い時期に、そういう考え方をしているということは、
それまでの一世紀に近い長い時間を、ずっとそういう生き方をしてきた…ということなのだろう。
これって、客観的に考えてみると、
「人生80年生きたうち、75年分くらいを、自分の心が作り上げた不平不満、不安で埋め尽くしてきた」
ということになる。
死んだ後に、彼らがその事実に気がついたときには、愕然としたり、後悔したりしないのだろうか・・・。
ある年配の女性は、心のどこかで、そんなことを感じているのか、こんな言葉を漏らした。
「私が今まで生きてきた意味はあるんだろうか。
今まで、一体何をやってきたんだろう。
私は、これだけ生きてきたのに、なにも意味あることは残せなかったんじゃないだろうか」
私はこう答えてみた。
「なにも残せなくても、自分の心(魂)を生まれたときよりも、ピカピカに磨いて
この世を去れたら、十分かもしれませんよね。
死ぬときは、自分の心しか持っていけないですから」
女性は、目をまん丸にして、しばらく言葉を失っていたが、しばらくしてつぶやくように語り始めた。
「ああ、そんな考え…あったんですね。
でも、私、自分の心をピカピカにはできませんでした。この先もできないと思います・・・」
「どこか、心の一面だけでも、ピカピカにできれば、それでもいいのではありませんか?
もし、また、生まれ変わることができたら、次の違う面をピカピカに磨く…。
そんな風に、何百年、何千年と生まれ変わりながら、人間って、心を磨いていくのかもしれませんね」
一回の人生で、完璧な人間にならなければ…と思うと、生きているのが苦しくなる。
でも、「人は、何度も、繰り返し輪廻転生をしながら、成長していくものだ」
と、考えれば、おおらかな目で、ゆっくり自分や周囲の人の成長を見つめていけるような気がする。
人間は、悲しい性を何度も、何十年も、繰り返しながら、悟っていく生き物なのかもしれない。
…なんてこと先週末考えていたら、昨日、ご招待で見に行った映画
「地球交響曲第五番」のテーマが、「輪廻転生、誕生と死」だった。
内容、構成が、あまりにも、最近の私の興味にマッチしたものだったので、思わず、
「なんだか、私のために作られた映画のようだわ」
と、感激した。
これといったすごいストーリーがあるわけではないのだけれど、
「生かされている命」とを深く考えさせられる美しい映像で、
久しぶりに、心震わされるくらい「生きている」ということを実感できる一時だった。
感動した言葉も、たくさんたくさんありすぎて、ここでは紹介しきれないので、
一番心に残った言葉だけ紹介したい。
「世界の平和とか、人類への奉仕…といったことを考えるときに、
何万人もの命の幸せを漠然と考えるよりも、たった一つの命を心から慈しむことの方が、
「全ての命を大切にする」ということに近い気がする」
この言葉を聞いて、こんなことを考えた。
「マザーテレサやダライラマのように、何万人、何億人もの人の心を救う人生は、
確かに、誰もが「すばらしい人生だ」と賞賛するだろう。
でも、誰も賞賛しなくても、たった一つの自分自身の命(魂)と、
自分の周りの親しい人たちの命(魂)を心の底から、慈しみ続ける人生もまた、
聖人たちと同じくらいの価値のある人生、同じくらい世界に貢献できた人生なのではないだろうか・・・」
ささやかでもいいから、自分と自分に縁のあった命を慈しんでいきたいと思う今日この頃・・・。
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