ひまわり先生のひとりごと (2005年5月) |
2005年5月2日 |
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いよいよ9年目に入りました。
クリニックのトップページでも、お知らせしておりますように、
これから一年くらいかけて、徐々にひまわりをリニューアルしていきます。
ここ一年くらい、漠然と、「今の私の生活、なにかが違うみたい」
と思うようになっていました。なにが違うのか、具体的なことは
わからずにいたのですが、やっと最近、少し理由が見えてきたように思います。
「医師」という仕事は私にとって、人生の中の大切な通過点だったはずが、
いつの間にか「目的地」のように勘違いしてしまったことが原因のようです。
それは、ホスピスやカウンセリングの仕事があまりにも充実していて、天職だと思っていたからかもしれません。
山登りにたとえていえば、
「山登りに必要ないろいろな情報と資金を集めるために、
途中の茶屋でバイトを始めたら、お茶屋の女将の仕事がことのほか
自分の性に合っていたので、「女将になるのが自分の人生の目的だった」と思いこみ、
山を登ることを忘れてしまった」
という感じでしょうか。
ここらで、本来の目的であった「山登り」を再開しなければならないのかなあ、
と思っているところです。
ところが、「お茶屋の女将」の仕事にいそしんでいるうちに、
登るはずだった登山口は閉鎖されてしまったり、草茫々になってしまったりしている状態です。
そこで、女将の仕事を続けながら、まずは登山口の整備整頓をしようと考えています。
登山口が整った後、どんな形で登山をするのかは、今のところ私にもよくわかりません。
女将を続けながら登るのか、女将はやめてしまうのか、
はたまた、一度女将を休憩して、頂上まで登って、何かを掴んだあとに、もう一回お茶屋をやるのか…。
そのため、いかようにも対応できるように、徐々にリニューアルをしようと決意しました。
いろいろご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
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2005年5月16日 |
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先日、「ラ・トゥール展」に行ってきた。
真作と模作が一堂に展示されていた。
ただ、模作といえども、その技術はとても高く、本物そっくりと見まごうばかりに描かれていた。
しかし、絵全体から発している「気」は、真作と模作では明らかに違う。
真作は、「光のあたっている部分」や「灯火」に深い慈愛が溢れていて、
宗教性、精神性が強く感じられる。
また、じっと眺めていると、瞑想しているときの様なα波が出やすくなる「気」が
漂っているのだが、模作にはそれがない。
また、ラ・トゥールは人物の性格や精神への観察眼が相当優れているようで、
それぞれの人物像に特徴的な「気」まで、描きこんでいる。
でも、模索にはそうしたものが感じられない作品もある。
また、模作は、「作る人が、作品の中のどこに焦点を当てて、描いたのか」
によっても、作品の放つ「気」が違ってくる。
やはり、どんなに技術的によく描けていても、「気」のレベルで模索が新作を超えるのは、
よほどのことがない限りむずかしいなあと思った。
ところで、気に入った絵を買ったので、自室の絵を掛け変えたら、
それだけで部屋の空気がずいぶん変わった。
絵が放っている「気」が潜在意識に及ぼす影響というのは、侮れないものだと痛感した。
実は、自分で描いた絵を部屋に掛けていたのだが、絵を見るたびに、
「それを描いたときの精神状態」を無意識の中で反芻していることに気がついた。
ということは、欠乏感が強いときに描いた絵を飾っていると、
無意識の中に欠乏感を植え付けることになりかねない。
ところで、私の家やクリニックには、絵だけでなく、物もたくさん溢れている。
実は、ほとんどが「頂きもの」なのだが、自分の趣味でないものもたくさんある。
「いただいた相手の気持ちを考えて・・・」
と、捨てたり、人にあげたりすることができないでいた。
でも、「物の気」の影響の大きさに気がつくと、身のまわりに置くものは
できるだけ慎重に選ぶ必要を感じた。
なので、今回、思い切って、いろいろなものを整理し、自分にとって必要のないものは、
「いただいたときの真心だけ、しっかり頂戴して、その「物」を実際に、
愛して役立ててくれる人のところにまわそう」
と、決意し、家中の整理を始めた。
体だけでなく、心や身の周りのシェイプアップをする時期も、
人生には大切だなあと思う今日この頃。
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2005年5月23日 |
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ラ・トゥールの絵画展に行ってから、身近にあるたくさんのものを
いろいろ観察するようになった。
庭の草木。テーブルの上のろうそくとワイングラス。街灯。虫。鳥。雲。風。
「ろうそくの灯に、あれだけの慈愛を感じられる人がいるならば、他のものにも同じような慈愛を感じられる人が、いっぱいいるに違いない。
農家の人は、野菜の葉っぱ一つに愛を感じるだろうし、植木屋さんが見たら、自然の樹木と庭に生い茂っている樹木では、違うものに見えるんじゃないだろうか。
また、同じ花をイメージして舞っても、日舞をやってる人、お能をやっている人、フラメンコをやっている人、バレエをやっている人では、違った視点で花を見るかもしれない。
悠久の大自然を音で表現したピアニストがいたけど、舞で表現したら、どんな舞ができるんだろう」
とか考えていると、けっこう面白い。
見慣れたはずの日常が、全く違う非日常の世界に感じられてくる。
当たり前のように、身の回りにあるたくさんのものも、いろいろな角度から見たら、不思議で幸せな世界が、たくさんたくさん広がっていくのだろう。
面白い世界が見えるメガネをいろいろ発見したいものだ。
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2005年5月30日 |
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アドバイザー兼カウンセラーとして、ときどきいくつかの老人保健施設に行っている。
郊外の施設だと、都心から30分離れるだけで、敷地内にかなり緑が一杯ある。
「終の棲家を選ぶなら、こういう自然に恵まれた環境は、幸せなことかも…」
なんて思っていたが、住んでいる人にとってはそうでもないこともあるらしい。
もともと、下町などの賑やかな所や、ビル群のごみごみした人工的なところに住むのに慣れている人にとっては、豊かな緑溢れる庭や裏山のある施設で生活していると、
「こんな田舎住まいになってしまった。私も落ちぶれたものだ」
と思えて、とても不幸な気分になるのだそうだ。
でも、同じ施設に住んでいても、
「私はこんなすごいところに住めるくらいいい暮らしをしてきた」
と自慢に思っている人も、もちろん、いる。
ある人にとっては、とてもいい環境であっても、別の人から見れば、とても不幸な環境に思えることは多々ある。本当に、幸不幸はその人のかけている「メガネ」次第だ。
かくいう私自身も、あまり普段は意識していないけれど、自分の「メガネ」の影響を知らず知らずのうちに受けている。
たとえば、何気なく街を歩いているときに、気がつくと私は、
「あの人、今日、会社で大変だったのかな。疲れているみたい。こっちの人は、かなり精神的に病んでいるみたい。楽に生きられるといいね。あの人は育児ノイローゼにかかってるみたいだなー。もっと、気楽に生きていいよ」
とか、病気の人や大変そうな人に無意識のうちに目がいく。
でも、友人などは、街を歩いていると、
「あ、あの人、面白い洋服着てる。わ、あっちの人は、UV対策が万全ね。すっごい白塗りで、サングラスに、ドデカイ帽子かぶってるもん」
とか、面白い人、変わった人に目が行くらしい。
たぶん、自然が好きな人は、「ここに、変わった植物がある。今日の雲は面白い形をしているなあ」などということに目が行くだろう。
こんな風に、知らないうちに「無意識に見ているもので、心の中を満たしていることの影響」って、侮れないものだ。自分でも気がつかないうちに、心配なことや辛いものばかりを見て、知らず知らず、自分自身で「不幸」の種を心の中に溜め込んでしまうと、大変なことになる。時には、自分の中の「無意識」を意識することも大切だ。
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