ひまわり先生のひとりごと (2001年6月) 
  2001年6月4日
週末、神奈川県の大和で開かれた講演会に行ってきた。
今回は、私以外にも講演の演者が2人いた。出不精の私は、
こんなことでもないと、人の講演は聴かないので、
今回は、とても勉強になった。

なかでも、「傾聴する技術を磨く」という話を語られた
村田先生の話は印象的だった。
内容的には、私がやっていることと同じなのだが、
「カウンセリング方法を人に説明するのに、こういう表現方法があるのか!」
と、目から鱗が落ちる思いだった。

実は、私は自分がやっている仕事上のテクニックを人に伝えるのがとても苦手だ。
仕事柄、よく、看護婦さんや同僚から、
 「こういう患者さんには、どんな風にアドバイスするのか」とか、
「どんな風に話を聞き出すのか」 と、よく聞かれるが、
これほど困る質問はない。
なぜなら、カウンセリングをしているとき、私は理論的に、
「こんな時には、こんな風に話そう」
 などと、考えてしゃべっているわけではないからだ。

ご相談の話を聞いているとき、私は相手自身になったつもりで、
ボーっと、その人の置かれている状況、その人の人生を
想像しながら、味わうことにしている。
すると、必要なときになると、一番ふさわしい言葉が、天からポンと降りてくるのだ。
私は、ただその天から落ちてきた言葉をしゃべりさえすればいい。
だから、努力して解答を考えているわけではないのだ。

多分、これは、私が元々持って生まれた能力なのかもしれない。
これは、ある種の芸術家や、小説家などの才能と
同じなのではないかと思う。
たとえば、「ミケランジェロは、石を見ると、図面も書かず、
迷いなく彫ることができる。しかし、平面的な絵画では才能が十分発揮できなかった」
のだそうだ。

私にとって、「悩み相談に答える」とか「エッセイを書く」
という作業は、ミケランジェロの彫刻のように、天から降ってくるものだ。
なにも苦労なく出きる。
しかし、「だったら、カウンセリングの技術や専門分野の研究論文だって、
書けるでしょう?」と、いわれると、途端に困ってしまう。
なぜなら、本人は、考えてやってるわけではないので、説明できないからだ。
ついでにいうならば、私の場合、難しいことを考えながら
カウンセリングをしようものになら、絶対、失敗するのがオチだったりする。

こういう話をすると、「天賦の才能なんて、うらやましいなあ」
と思う人もいるかもしれない。
でも、私から見ると、努力して技術を勝ち得た人には、
その人にしかできないすごいことがあるように思える。

たとえば、「踊り」の世界などでは、天才肌の人、
努力肌の人では、全然違った魅力のある踊りを披露してくれる。
そして、天才肌の人は、いい教師になれないことが多いが、
努力肌の人は、苦労して技術を身につけた分、
とても有能な教師になることが多い。

村田先生のお話を聞いていて、
「最後に伸びるのは、この先生のように、日々、
弛みない努力を続けられる人じゃないかなあ。
こういう人は、教師に向いているよなあ」と、しみじみ思った。

天才、秀才、どっちも、素敵な才能だ。
自分の隠れた才能を自分らしく伸ばせるといいよね





 2001年6月6日
「いい先生を紹介してください!」
こういう相談ほど、返答に困るものはない。
なぜかというと「いい先生」の価値基準が、人によって、全然違うからだ。
その上、相性の問題もあるし、医者にどのくらいの期待をかけているかでも、
合う合わないは変わってくる。

先日相談にこられた方から、
「A先生は、ここはいいけど、あそこはいや。
B先生は、こっちはいいけど、こんなとこが不安。
C先生は、こんなところがねぇ…。
A先生とB先生とC先生を足して、3で割ったような先生を紹介してください」
といわれたんだけど……。

私から見たら、A先生もB先生もC先生も、医者としては、
技術もしっかりしていて、性格もいいし、Aクラス、Sクラス級の人だ。
そんなすごい人を3人足して、3で割ったなんて、
そんな素晴らしい先生がいたら、私がかかりたいくらいだ。
はっきりいって、そんな非の打ち所のまったくない医者なんて、
私は今まで、お目にかかったことがないし、多分、いないはず。

人間、長所もあれば、欠点もあるんだから、
あまり理想の医者を求めすぎると、絶対に満足できる医者には
かかれないと思うんだけどなあ―。
……と、他人にはいくらでもいえるけれど、自分のこととなると、
これが、かなりわがままになる。

「丁度、今の自分にピッタリ合うフラメンコのクラスって、ないよなあ。
振り付けはあまりしてもらわなくていいから、
基礎力をもっとアップしたいんだけど……。
できれば、曜日はO曜日がいいなあ。
クラスの雰囲気は、プロを目指すようなキリキリした感じじゃなくて、
でも、そこそこやる気があって、和気あいあいの雰囲気だといいなあ。
先生は、もちろん、私好みの踊り方でなくちゃ。
レッスン料は高くないほうがいいなあ……」

なーんて、あれこれブツブツいっていたら、すかさず、
織田ちゃんが口を挟んできた。
「先生、それって、この間相談にこられた患者さんがいってたことと
同じじゃないですか。そんな贅沢な条件、全部クリアーできる
お教室なんて、あるわけないじゃないですか!」

……織田ちゃんのいう通りです。
しょうがない…。自分で、自分にカウンセリングしよう。
「人に求めるばかりじゃダメです。足りることを知りましょう。
今、与えられている現状の中で、より、自分らしい過ごし方を
するためには、どうすればいいのか、よく考えて、自分でも努力しなさい!!」




 2001年6月11日
プロの仕事って?

昨日、珍しく、妹とまじめな話をした。
ふだんは、たわいもない漫談ばかりしているのだが……。
話の発端は、「私達姉妹は共に、商売っけがない」というところから
始まった。

「この間、また、同業者が雑誌にデカデカと取り上げられてたの。
商売上手な人っていいよね。
やっぱり、まずは名前を売らないことには、商売が安定しないのかなあ……。
私も、他の人みたいに、損をしても、安い商品をガンガン売るとか、
逆に、すっごい高い値段をつけて売ったりしたほうがいいのかなあ……。
ついでに、もっともっと、骨身を削って、ボロボロになってでも、
仕事を大量にこなさないとダメなのかなあ……」
と、妹が大きな、大きなため息をついた。そこで、私。

「たしかに、私達姉妹って、ほんとに商売っけがないよね。
私も、もうちょっと、「自己アピール」や「売り込み」がうまければ、
「ひまわり」も、経営難から脱出してるかもしれないのにね。
でも、私は結構、今のスタンスが気に入ってるんだ。
まあ、なんとか生活はしていけるし……。それに、お金がいっぱいあっても、
自分の時間がないのは、もう嫌だもん」

と私がいっても、目下、ガラス職人として売りだし中の妹としては、
私のように、「のんびり自分らしい仕事ができれば、まあいいか」
とは、割りきれないところもあるらしい。
「でも、同業者がどんどん有名になってくと、不安になるんだよね」
と、のたまう。
「確かに、汚い手を使ってでも、のし上がっていく人を見ると、
心穏やかじゃないよね。でもさー、思うんだけど、有名になるために、
仕事してるわけじゃないでしょ? 
『使ってもらう人に喜んでもらえる作品を作る』ってことが、
大切だと思ってるんでしょ? だったら、『有名になるのが目的』って人とは、
おのずと歩く道は、違っていいんじゃないの? 

「質の悪い品を大量に作って、安売りして有名になって、
金持ちになる」という生き方も一つかもしれないけど、
そんなことをしても、自分は楽しくないんじゃないの?
それに、「少々値段は張っても、どうせなら、本当にいいものが欲しいわ」
という人は、叩き売りのように売っている品は買わないと思う。
どうせ、心を込めて作るなら、心をこめて使ってくれる人に
もらってもらったほうが、作品も嬉しいんじゃないかしら?

そりゃ、有名になって、お金持ちになれたら、それにこしたことはないと
思うけど、それが目的ってわけじゃないでしょ? 
楽しく、自分らしい仕事ができてこそ、いい作品が出きるんじゃないの? 
有名になるとしても、それは「目的」じゃなくて、「結果」なんじゃない?
それに、有名になって、お金持ちになっても、忙しすぎて、
自分らしくない生活してたら、楽しくないと思うよ。

そういえば、この間、お能のT先生が話してくれたんだけど……。
先生が仕事で、インドに行ったときにね、インドの子供達の目が
すごくキラキラ輝いてたのに、ビックリしたんだって。
向こうの子供達は、すごく貧しくて、ご飯を食べることだけでも精一杯で、
病気にかかって、早死にしちゃうことだってあるらしいのに……。
みんな、とっても楽しそうに生活してたらしいよ。
彼らを見た先生は、『インドは、100年たっても今のままかもしれないけど、
日本は、どんどん変わっていって、100年後は破滅してたり
しないんだろうか。どっちが幸せなんだろう』と思ったんだって。

私達はさあ、そりゃ、いまさら、インドのような不自由な生活にはなれないけど……。
でもさ、物質的な幸せよりも、もうちょっと、心豊かに過ごせる生活を
優先してもいいんじゃないかと、私は思うね」

すると、妹が感心したように、いった。
「だてに、カウンセリングの仕事してるわけじゃないじゃん!
たしかに、便利な世の中になったけど、便利さに踊らされて、
大切な物を見失っている世の中になってるよね。
でも、相手の身になった品を作るって難しいよね。
だって、やっぱり、消費者としては、安ければ、安いほど嬉しいしね」

私もうなずきながらいった。
「たしかにね。でもさ、どのくらいの品で満足するか?っていうのは、
人それぞれの価値観なんじゃない? 
たとえば、相手がある程度自由に品と価格を選べるように
してあげるのも、一つのプロの仕事なんじゃないの?

たとえばさ、「私はこの模様だったら、ガラスの質は
クリスタルでなくてもいいわ。模様も手彫りじゃなくてもいいから、
少しでも安いものが欲しい」という人には、
「機械彫りで、安いグラスに彫って、値段を押さえてあげる」とかさ……。
 「私には、これだけ技術があるんだから、これを買って!」ってやり方も、
悪くはないけど、本当の意味で、「消費者の心に添う品物」っていうのは、
「相手の求めるものに合わせた品」ってことじゃないかな?

たとえば、小食で、小さなご飯茶碗の半分しか食べられない人に、
「遠慮しなくていいよ!」って、丼飯をあげたって、喜ばれないよね。
逆に、大飯ぐらいの人に、食事を出し惜しみをしたら、不満げな顔をされちゃう……。
たくさんの技術を持っているってことは、それだけ自分には余裕がある
ってことだから、とっても素晴らしいことじゃない?  
だったら、余裕がある分、もうワンランク上のプロの仕事として、
「相手のニーズに応えて、技術を使い分ける」と、よりいいんじゃない?

それは、怠慢して、技術を出し惜しみしているっていうのとは、
別のことだと思うよ。まあ、最初は、「自分としては慣れないやり方だなあ。
どうせなら、いい物を買ってもらいたいのに……」とか、
思うかもしれないけど、やってるうちに、慣れてくるよ。
あ、これもT先生の受け売りだけどさ、踊りでも、
「自分としては、すごく気持ちの悪いやり方だけれど、実際には、
こっちの方法の方がいい」って思うときには、しばらくやりつづけてみると、
そのうち、それが体になじんでくるんだって。

踊りじゃなくても、仕事とか、物事の考え方なんかも、
そうなんじゃないかなあ?」
妹は妙に納得してくれて、
「それ、いい話だから、ひとりごとに書いたら?」といってくれた。
めでたし、めでたし。

あ、ガラス工芸に興味がある人は、ここから飛んでいってみてね。



 2001年6月25日
いつの頃からか、なるべく、直感を大事にして仕事をするようになってきた。
「とても条件のいい仕事でも、あまり気乗りがしないときには、断る。
逆に、骨はおれそうだけど、ワクワクするような仕事のときには、受ける」
……という感じで、仕事(主に、副業ね)を選んでいた。

でも、ときどき、「ほんとは断りたいんだけれど、義理があって断れない」
とか、「将来的なことを考えたら、受けておいたほうが得かな」とか、
「無理してでも、何とかしてあげないとダメかな」などと、
気乗りがしないまま、仕事を引き受けることがある。

すると、どういうわけか、トラブルが続いて、仕事が終わると
ぐったり疲れ果ててしまう(普段、私は仕事をしていたほうが元気!!)。
ついでに、こういうときというのは、一緒に仕事をする相手も疲れることが多いみたいだ。

 たとえば、地方出張のときによくあることだけれど、主催者側が気を利かせて、
あれこれいろいろな接待をしてくださったりする。
この接待、不思議なことに、主催者が、
「自分たちも、接待の名の下に、大騒ぎして大いに楽しめる!!」
と、楽しそうに騒いでいる会に出席したときには、とても楽しいのだが、
「講演会にお呼びした先生は、このようにしてもてなすこと」
という、マニュアルの下に、あれこれお義理でお相手してくださる時は、
実は、とーっても疲れる。

わざわざ接待係の人が決められていて、一生懸命休みを返上で、お相手してくださるのに、
「一人が気楽です。放っておいてくれていいですよ」
とは、なかなか言い出しにくくて、ハイハイと、お相手されるがままに過ごしているのだけれど…。
内心、いけないことに、
「はやく、ホテルに帰って、フラメンコとお能の練習がしたい……」
とか、思ってたりすることも少なくない(ごめんなさいっ!)。

でも、同じ接待でも、
「私、接待がやりたくて、志願したんです!」
という人が、接待役だと、めちゃくちゃ楽しい一日が過ごせるのだ。
だから、やっぱり、お互い、楽しく仕事をして無駄を省くためには、
気乗りのしないことは、断ったほうがいいのかもね、と思う今日この頃。

でも、実際には、義理のある仕事を断るのは、エネルギーがいる。
だから、ついつい、「まあいいか」と安請け合いしてしまう。

ああ、田中真紀子さんのように、ズバズバ言いたいことが言えるくらいの
太い神経が欲しい…!!!!





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