ひまわり先生のひとりごと (2001年8月) 
  2001年8月8日
「幸せ」について、パート3

先日、横浜のホスピスの先生が夏休みを取られる関係で、
数日間、横浜勤務に出かけていた。
そこで、患者さん、看護婦さん達と、「幸せ論」を語り合ったのだけど、
それがちょっといい話だったので、ご紹介。

普段、私達は、遊びでも、仕事でも、なにかする時、10なにかをしたうち、
3/10がいいことで、6/10が普通で、1/10が悪いことだと、
ついつい、1/10の悪いことばかりにこだわってしまう。

たとえば私だと、踊りのお稽古にいって、誉められたことが3つあっても、
1ヵ所、ガンガンに怒られたら、ずー―っと、怒られた1ヵ所のことが気になって、
その日のお稽古は上手にできなかった気になってしまったりする。
ついでに、自分が落ち込みモードに入ってたりすると、客観的には、
1ヵ所しか怒られてなかったのに、お稽古の9割は怒られていたような気分になり、
ますますブルーな気分になる。

同じように、ブルーになりやすい人というのは、1/10の不幸を9/10くらいまで、
増幅していたりして、ますます不幸にはまっていたりするもんだ。
そして、3/10の幸せがあったことなんか、す―っかり忘れてしまっている。

ついでにいうと、ブルーになりやすい人は、3/10の幸福を不幸のときのように、
増幅させることはあまりない。ついでに、増幅しない理由として、
こんな理由をつけてたりすることもある。

「私は幸せだと思ったけど、勘違いかもしれないし…」
「このくらいの幸せで、有頂天になっていたら、堕落する」
「ほんとは、2.5くらいしかない幸せのはずなのに、それを9まで増幅するなんて、
ずうずうしいわよね―」
「こんなことで、嬉しいなんて騒いでいると、1/10大変なことを、忘れちゃって、
能天気な人間になっちゃうのよね―」
なんて、心の中でつぶやいてないだろうか。

ところで、考えてみると、
「あの人、こんなつまんないことで、浮かれちゃって……。
能天気な人だよね―」
と、批判している人に限って、不幸体質人間なものだ!

本当に幸せになりたいなら、批判ばかりしている人の意見を気にして、
同じ次元にドップリつかって、自分まで、不幸の湯船に浸かる必要はない!

幸せになりたかったら、堂々と、3/10の幸せを感じて、それをもっともっと大きくすればいい。
幸せをどんなに大きくしても、自分さえしっかりしていたら、
1/10の不幸の原因も客観的に見つめて、修正していくことは可能なのだから…。

案外、しっかり3/10の幸せを見つめられる方が、
1/10の不幸も客観的に見られるから、対処するのが楽になるかもね。




 2001年8月15日


「自分の周りで起こっているいろいろな出来事は、
本当の自分自身が映し出されている鏡のようなものである」
という文章を昔、読んだことがある。

当時は、「そういうことも確かにあるかもしれないけど、でも、周囲のせいで、
本当に迷惑をこうむっていることだってあるじゃない!」と思っていた。
でも、最近になって、「この言葉は実に真実を現しているよな―」としみじみ思う。

たとえば、よくある相談のケースだが、
「夫が、ちっとも私のいうことに耳を傾けようとしないで、自分の意見ばかり押し付けるんです!
 まったく頑固なんだから!」
という奥さんの話を聞いて見ると、奥さん自身、夫の話には、頑固に耳を傾けようとしていなかったりする。

また、別のケースで、
「友人も、彼も、みんな思いやりが無いんです。
ちっとも、私のことを真剣に大切にしてくれない!
私は、こんなにも、彼らのために尽くしているのに!」
といっている人は、一見、愛情深そうに見えるけれど、よくよく話を聞いてみると、
周囲の人に親切にしているのは「見返り」を求めるためであって、
真に相手のことを思って愛情を注いでいるわけではなかったりする。
だから、自分も真剣に大切にしてもらえないのだ。

また、いつも誰かから、
「どうして、君は、いつまでたってもそうなのかね!いい加減、学習したまえ!」
と、怒鳴られて虐げられてばかりいる人は、心の中に、
「どうせ、私なんか、ダメな人間だし…。怒られて当然なんだ」
と、自分を尊重していない部分を持っていたりする。
 
ところが、こういったいずれのケースのような状況に陥っても、
自分自身を大切にできていて、愛情にも十分満たされている人だと、
こんな風にやり過ごせるのである。

「ああ、夫は、どうしても自分の意見が譲れないんだな―。
でもまあ、私も、自分の意見を曲げるのは嫌なわけだし…。まあお互いさまかあ」

「友人も、彼も、自分のことで手いっぱいのときもあるよねー。
逆に、私のほうが、話の聞き手にまわってみようかな。
私で、なにか助けてあげられることがあったら、私も嬉しいし、幸せになるもんね」

「私、どうもドジだし、のんびり屋なのよね。
でも、しっかり者のいい上司の下につけてよかったわ。
私のぬけているところは、必ずフォローしてくれるから、安心!
(と、上司に甘えていると、上司もまんざら悪い気がしないから、怒鳴らなかったりするもんだ)」

こんな風に、上手にかわせるようになれば、あまり腹も立たないから、問題にはならない。

もし、周りの人たちを見ていて、むかつくこと、腹が立つこと、
理不尽だと感じる部分があったときには、「相手のせいだ!」と責めるばかりでなく、
ちょっと、考え方を転換してみよう。
どうせ、相手を責めてばかりいても、なにも解決しないし、
相手をなんとか変えようとしても、ほとんど変わらないものだ。
こういうときには、ちょっと、発想を変えて、

「この苦境は、私にどんなことを学ぶように教えてくれているのだろうか? 
私自身が、どんな風に、私自身が対応を変えれば、相手が変わってくれる可能性があるだろうか」
と考えてみるといい。自分が対応を変えてみると、状況は、簡単に変わったりするもんだ。

…とはいえ、私自身もいつもそれができているかというと、そんなことはない!
「こんちくしょー!なんで、私がこんな目に合わなきゃいけないんだよ―!むかつくー!」
と、ひとしきり、叫びまくってから、
「ああ、いかんいかん、私の中に、まだまだ人を批判する心があるから、むかついたんだよな。
うーん、まだまだ、私も心の修行が足りん!」
と、したたか、反省する毎日だったりする。
そうそう、非の打ち所のない立派な人間になんて、慣れっこない。
「そこが、人間のかわいいとこよね」と自分で自分を慰めるのであった。




 2001年8月20日
輪廻転生

最近、スペインにいる元秘書みやさんと、「輪廻転生」という
怪しげな(?)話題で盛り上がっている。

ことの発端は、お能の「楊貴妃」の話から始まった。
お能では、楊貴妃は常世の国という死後の世界の中でも、
とても位の高い人だけが住める世界にいることになっている。
そんな偉い人が、たまたま、人間に生まれ変ったので、
絶世の美女だったという設定なんだそうだ。

そんな楊貴妃は、人間界で、玄宗皇帝と恋に落ちて、
「死んだ後も、ずっと一緒よ!」と約束を交わしたのだけれど、
死んだら自分は常世の国に戻ってしまったので、
たとえ玄宗皇帝が死んだとしても、死後の世界でも会うことができないという、
かわいそうなお話なんだそうだ。

楊貴妃の話がお稽古場で出たとき、
「死んだ後も、何百年も何千年も『会えなくて悲しい…』
と思いながら、過ごさなきゃいけないなんてかわいそうですよね―」
という話になったのだけど、私はふと、

「でも、考えてみれば、苦しんでいるのは楊貴妃が悪いんじゃん!」
という気持ちになった。
だって、考えてみれば、苦しまないですむ方法はいくらでもある。
 常世の国で、玄宗皇帝よりいい男を見つけるとか、
一回生まれ変れたんだから、もう一回生まれ変ることに
チャレンジするとか……。

それでも諦めがつかないくらい、愛してるなら、それはそれで、
「何千年も会わなくても、愛し続けられるほど、素晴らしい人に
めぐりあえたなんて、それだけでも、幸せなことだわ!ラッキー!!!」
と、幸せだったときのことだけ思い出せばいい。
このときに、「あのときは幸せだったのに、今は幸せじゃない」
とかいって、今の不幸にまで目を向けてしまうから、
不幸になるのだ! 楊貴妃が不幸なのは、自分が悪い!

……というような話を、みやさんに書き送り、ついでに、
「あーあ、私も、一回でいいから、こういう世紀の大恋愛、してみたいなー。
でも、飽きっぽいから、無理だろうな―。
でもでも、もし、そういう人にめぐりあえて、
相手が私を待っててくれるなら、どんな苦労をしてもいいから、
地獄のような世界でも、がんばって追いかけていくのになー」
なんて付け加えてみた。

で、メールを送ったあと、急に、中学校の時の演劇の効果音で使ったセリフが
天から降ってくるように、頭の中に浮かんできた。
それは、メーテルリンクの「青い鳥」の中の「未来の国」という話の中の1シーン。
これから人間の体に生まれ変ろうとする魂たちが、この先、
お互いに記憶を失って、離れ離れになってしまうのを嘆いて、
言葉を交わすシーンのセリフである。

「しるしを頂戴!しるしを!」
「いつまでも、君を愛するよ……」
当時、ものすごく感動して、聞くたびになぜか涙が止まらなかったことが忘れられない。

で、思わず、
「ああ、輪廻転生なんてものが本当にあって、物語のように、
なにか約束を果たすために生まれ変ってきたのだとしたら、
それだけでも人生が、楽しくなるかもなー」
なんて、乙女チックな気分に浸ってしまった。
なので、そんなことをつらつら書いたメールをみやさんに出そうとしたら、彼女の方からも、

「先生のメールを見ていて、思わず、輪廻転生という言葉が頭をよぎりました。
今回の人生も、輪廻転生の何回目かって感じだったりしてね―」
というメールがタイミングよく飛び込んできたもんだから、
すっかり二人の間では、輪廻転生論で盛り上がってしまった。

そういうことがあるのかないのか、科学的根拠はさておき、
実際のところは死んで見なきゃわからないけど、
そういうものがあって、
「私は、こういう目的、こういう一大事業を成し遂げるために、
人間界に生まれてきたんだぞ」
と思うことで、とっても毎日が楽しく充実できるんだったら、
信じるのも悪いことじゃないよね―、というのが、我々の結論でした。

ところで、あなたには、生きる目的、生きる目標が、ありますか?



輪廻転生 その2

輪廻転生論で盛り上がっている私の周辺の人々の間では、
今、こんな心理ゲームがはやりだ。

1.「歴史上の人物、実際の人物、どんな人でもかまいません。
  自分がこういう人生を送ってみたいと思う人物を挙げてください」

2.その理由を述べてください。

3.自分と、その人生の中で、似ている点はどんなところですか?(必ずなにか類似点があります)

4.自分の人生になくて、その人の人生にあって、どうしてもあなたが手に入れたいものはなんですか?

5.なぜ、あなたは、それを手に入れられていないのでしょう?

6.欲しい物を手に入れるために、今からできることがありますか?

7.もし、すべての条件が整って、欲しいものが、将来手に入れられると仮定したら、
 今から、その準備のために、何ができますか?

あなたも、ゲームを楽しんでみませんか。




 2001年8月22日
輪廻転生 その3

輪廻転生話はその後も盛り上がっており、先日は、妹と、
「自分はどんな人生を送りたくて、生まれて来たと思うか」
という話になった。

ところで、会話の本題に移る前に、1ヶ月ほど前、
「我が家の家族を動物にたとえるとなにか」
という話で盛り上がったということを前置きしておこう。

ちなみに、母はメスライオン、父はハリネズミ、私はチーター、妹がボーダーコリー、
弟がきりん、弟の嫁さんがガゼル、という結論になった。
話の発端は、弟夫婦がお盆休みで実家に帰ってきていたこと
から始まったのだが…・・。

妹「人間、変われば変わるもんだね。あんなに、学生の頃から、あちこち飛び回って、
好き勝手に過ごしていたおにーさん(弟)が、すっかり家庭的になっちゃっててさー。
今までだったら、まとまった休みがあったら、実家なんかこないで、
旅行に飛び出していってたよね―」

私「まあ、やっぱり、「きりん」は、本来草食動物だったってことかねえ。
メスライオンに育てられて、ライオンに負けない脚力と、強さを持ってるけど、
いざとならないと力は出さず、本来ののんびりな生活に戻ったとか…」

妹「私さあ、見てて、楽しそうだなぁと思う反面、
 私だったら、ああいうおっとりした生活、できないなーと、思っちゃった」

私「私も―! 『生まれ変ったら、平凡で、静かで、ほんのり暖かい生活がいいなー、
 アップダウンの激しい人生は、もういや!』なんて、思ってたけど、
 そういう生活は、私にはできないと、私も今回、思った。
 私は刺激的な人生じゃないと、生きた気がしないんだよね。
 私がこういう生活を送っているのは、自分で選んだんだな―と思ったわー」

妹「人間ってさー、いろんな生き方があるよね―。
 たとえばさー、私は『5のものを人生で得たら、5は返したい!』と思ってるわけ。
 でもさー、純子は、『5のものをもらったら、8返したい!』って思って生きているように見える」

私「うーん、まさにその通りかも!」

妹「そして、他には、『5もらっても、3だけ使って生きる』って人や、
 『5もらうだけ』って人ももいるわけじゃない? 
 なんか、私達って、ママさんの影響で、そういう人生はいけないと思ってきたけど、
 実は、そういう人生もそれでいいんだよね―」

私「そうそう。『5もらって、8返したい』人がいるってことは、
 差額分をもらってくれる人が絶対必要だもんね。
 社会全体でみたら、もらったり、返したり、帳尻取れてるんだよね―。
 でもさー、うちのママさんって、『5もらったら、10返すべき!!!』って、考え方だったから、
 私たちは『5や8を返したくらいで、満足しちゃいけない』と思っちゃってたんだよね―。
 だけどさー、自分の人生目標が、『5もらったら、5返す』ってことだったら、
 それが達成できれば十分なんだよね。

それに、ついつい、「才能や能力持って生まれてきたら、それを100%生かさなきゃいけない」
と思いがちだけど、別にそれを使わずに、平凡な人生を歩いたって、
それは、本人の自由なんだよね。

それに、『ボーダーコリー』は、どんなにあがいたって『ボーダーコリー』にしかなれない。
『チーター』にはならないんだよ。
 『チーター』のようにすばやく走って、『8返して』、
サバンナを自由に走れないかもしれないけど、『ボーダーコリー』にしかできない生き方があると思うよ。

たとえば、『チーター』がやってきたら、『ひつじ』達は、「食べられちゃうのでは」と
不安でビクビクするかもしれないけど、『ボーダーコリー』だったら、『ひつじ』は怖がらない。
そして、『ひつじ』を統率することは、『チーター』よりうまいわけだ」

妹「そうだね! 『ボーダーコリー』にしかできない生き方をすればいいんだよね。
『ボーダーコリー』も『チーター』も、『メスライオンのように生きろ』といわれても、
生きられないもんね」

私「そうそう。第一、他の人生を選ぶかっていったら、選ばないよね―
あとさー、私たちの中に、『メスライオン』のいう通りにしないと、
立派な『メスライオン』になれないどころか、『チーター』『ボーダーコリー』でいられなくなってしまうかも…。
ううん、それどころか、『ひつじ』『ハリネズミ』になっちゃうかも…。
さらに、さらに、『ハムスター』や『毛虫』になってしまうんじゃ……という気がしてたのかもねー。
でもさー、考えてみたら、『チーター』や『ボーダーコリー』が、
『ハムスター』になんか、なりっこないんだよね―。
それに『ハムスター』には、『ハムスター』のよさや、役割があるんだしねー。
世の中、みんな『メスライオン』だったら、大変だよね―。
それが、わかってなかったよね―。

ついでにさー、『5のうち、5を返したい』と常に思ってたら、
サボってても、4くらいは返せると思うんだよね。
だったらさあ、必死になって5を返さなくても、自分が納得するだけ努力して、
4.8くらい返す人生でも、上等だよね―」

なんとなく充実した気分になった、ひとときの会話でした。



 2001年8月29日
「欠点を持っているのはよくない」と、たいがいの人は
思っているのだろうが、最近、
「ある人の欠点のように見えることが別の人の役に立つんだなあ」
と思うことが多々あった。

「他人に頼ってばかりいる人」がいたお蔭で、
「ああ、私は頼ってくれる人がいないと、生活に張りがないんだなー」
ということに気がつく人がいたり、逆に、
「これ以上は手伝ってあげられない、とはっきりいわないと、
ずるずる頼られて、結果的に自分で自分の首を締めることに
なるんだなあ」と気がつく人がいたり…。

私事では、他人の悩み相談にのっているうちに、
自分自身が対処に困っていた問題の解決法が
ポンと思い浮かんだりすることはしょっちゅうある。

また、自分の苦手な分野の仕事をいやいや無理無理やるのではなく、
人に手伝ってもらうと、結果的に自分一人でやるより何倍もいい仕事ができたり…。

また、毎日の生活に不満をたくさん持っていたり、
不幸を嘆いていたりする人を見るたびに、
「幸、不幸は、自分の心が決めるんだなあ。幸せでいたかったら、
常に幸せを心に保ちつづける努力も必要だなあ」と、考えさせられたり…。

「神様は、この世にいらないものは作らなかった」
という言葉をよく聞くけれど、本当にそうなのかもしれないと、
最近つくづく思う。

たとえば、「私の中の欠点、なかなか改善されない部分、
私が何か失敗をやらかしたこと」などなど、私から見るとすごく
嫌なことだったりするけれど、もしかすると、神様の目から見たら
そんなことすべてが、どこかで役に立ってたりするのかも…と思う、
今日この頃です。




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