ひまわり先生のひとりごと (2003年3月) 
  2003年3月17日
ここのところ、あまりの忙しさに、「独り言」の更新も、なかなかままなりませんでした。

NHKの放送以来、嬉しい悲鳴で、「ひまわり」は満員御礼。
なかなか予約が取りにくい状態が続いています。
お手紙へのお返事も、暇を見つけて順番に書いてはいるのですが、
遅くなりがちで申し訳ありません。

 
ところで、個人的にも私の周りでは、いろいろなことがめまぐるしく動いています。
傍目には、「少し忙しいくらい」で、とりたてて生活が変わったようには
見えないのですが、毎月、毎月、心機一転を迫られる出来事が起こっています。


あまりにも、「一ヵ月後の自分の「心」の置かれている状況が予測のつかない生活」
にびっくりする毎日です。まあでも、考えてみたら、自分の人生を振り返ってみると、

 「三年前に、三年後の自分の生活が予測できたか?」
 と考えても、絶対予測のできないような人生を送ってきたわけですが…。
 ただ、嬉しいことは、毎月毎月、与えられた心の課題をこなすごとに、
確実に心が幸せになっていることです。
人生、死ぬまで修行とはよく言ったものですが、こんな風に、
どんどん幸せになれる心の修行なら、大歓迎です。


でも、自分がこんな幸せな生活が送れるようになるとは、実のところ、
十数年前には信じられませんでした。あの頃は、

「人生は真っ暗闇。私が幸せになれる日がくるなんて、絶対信じられない」
と思っていましたから・・・。

もしタイムマシーンに乗って、あの頃の自分に会うことができたら、

 「絶対、幸せになれる日がくるから、信じてがんばってご覧」
と、絶対に伝えてあげたいものだなあと、思います。

この「独り言」を読んでおられる方の中にも、

「私には、幸せなんてくるわけがない」
 と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、やはり、どんなときにも、「あきらめないこと」が、
幸せになるコツのひとつかもしれないなあと、今になってみると思います。




贅沢なお稽古

今、「班女」という曲の謡と舞囃子を習っている。この曲は、
「また会おうねと、約束した彼を待っているうちに狂ってしまい、
彼にもらった扇を見つめながら、日々を涙の中で暮らしている娘」の話だ。

16日は謡のお稽古だったのだが、久々の超感動、超贅沢なお稽古だった。
なにしろ、先生が、わざわざお舞台の上にたって、

「この曲は、こんな形で始まるんですよ」
とおっしゃって、たった一人の観客である私のために、最初の部分を演じてくださったのだから!

それだけでも、とーーっても、贅沢で幸せな気分になったのに、
さらにさらに、後シテ(主役)の登場シーンの部分の謡が実に、実に素晴らしくて、
大感動だった。まさに舞台さながら、迫真の謡!!


「お舞台さながらの、こんな贅沢な謡を私一人で聞いちゃっていいの?!

と思ってしまったくらい、本当にいい謡だった。
友人のSさんも、更衣室でこの謡を小耳にはさみ、

「いいなあ!!!私も、あの謡のテープがほしいよー!!」
と思うくらい、大感激していたらしい。

私などは、思わず、お稽古中だということを半分忘れて、
ボーっと、聞き惚れてしまい、涙まで出てきてしまった。
これが、お稽古ではなくて、単なる観客として聞いていたら、
おそらく、涙が止まらなくて困ったに違いない。

ああ、お稽古抜きで、ずっと聞いていたかった・・・。

そして、感動しているうちにお稽古が終わったのだけれど…。
その後、家に帰ってきてからも、あの謡が頭にこびりついて離れない!
その日一日、ずっとどころか、眠っていても、頭の中に「班女」の謡が
ずーっとリフレインされていて、目覚めるたびに謡が聞こえてくる!


相当インパクトの強い、すごい謡だったんだと、一晩立って目がさめてから思った。

ああ、こんな贅沢な謡が聞けて、私はなんて、幸せ者なんだろう・・・!!



  2003年3月24日
最近、マザーテレサの本をいろいろ読みふけっている。

マザーテレサが「とても愛情深く、愛を与えることに長けた人である」ことは
周知の事実だが、それ以上に、彼女が「愛情を受け取ること」にも長けていることに驚かされた。


あれだけ、偉大な人になっても、

「私は弱い人間です。
世の中の誰よりも、神の愛情をもっとも必要としているのが私です。
そのことを知っているからこそ、神は私にたくさんの恵みを下さるのです」

といえることが、実はものすごいことなのだと、最近しみじみ思う。
「愛」って、実は、「与えること」より、「受け取ること」の方がずっと、ずっと難しい。
かく言う私も、「愛情」をもらうのが、とても下手だと、実感している今日この頃だ。


ちなみに、ひまわりに相談にこられる人の中にも、
愛情をもらうのがとても下手な人々が多い。
なので、今日は愛情の上手なもらい方について、少し、思うところを書いてみることにする。


まず、愛情をもらう前から、

「私はとても愛情に餓えているんです。
多分、世の中に、私が満足できるだけの愛情を注いでくれる人は、
絶対にいないんじゃないかと思っています」

と言われる人がいる。
わたしもかつて、そう言っていた口なので、とても気持ちはわかる。でも、これはとっても損だ。


なぜなら、例えば、相手と付き合う前に、

「私は、一日に、何トンものご飯を食べます!こんな私を養ってくれますか?」
といったら、ビビッて、交際をためらう人は多いに違いない!これは、「愛情」でも、同じ。
 
また、自分自身で、「絶対に、私が満足するだけの愛情を注いでくれる人はいない」
と、公言してしまうと、
「その言葉を証明するような行動を自分がしてしまう」という、困った「法則」がある。


というのは、こういう人の多くは、「ざる」で、人の愛情を受けてしまうので、
いくら「愛情」をたくさん注いでもらっても、器の中に、「愛情」が溜まらない。
そのため、相手が疲れて「愛情」を注がなくなると、


「ほーら、やっぱり、私が望むだけの愛情を注いでくれなかった!
やっぱり、私の望むだけの量を注いでくれる人なんて、いないんだ」

と、いい放ってしまう状況を作ることになるのだ。
だから、こういう人は、「ざる」を修理して、ちゃんと、愛情が溜まる器に直す必要がある
(詳しくは、「天使」の本を読んでね)。


また、とてつもなく「でかい器」を持っている人も、器を「愛情」で満たすのが大変だ。
こんなときには、

「一人の相手からの「愛情」で、器を全部満たしてもらおうとしない。
たくさんの人から、少しずつ「愛情」を分けてもらうようにする」

ことが肝心だ。

たとえば、一日1トンのパンを食べる巨食漢の胃袋を
毎日満たせるパン屋さんを探すのは大変だ。
たとえ、一日に、1トン以上のパンを生産できるパン屋さんがあったとしても、
そういうパン屋さんには、たくさんの餓えた巨食漢の人々が集まっていたりするか、
すでに別の巨食漢のお得意様を抱えていたりすることがおおい。
そうすると、結局は、あまりたくさんのパンは買えないかもしれない。


ただ、必死で、大きいパン屋さんを探して回っていれば、
世界中に一軒くらい、自分のためにだけ一日1トンのパンを
焼いてくれるパン屋さんがいるかもしれない。

でも、それよりは、国じゅうのパン屋さんから、ちょっとずつパンを買い集めれば、
1トンにするのは、簡単だ。


でも、もっと簡単に、「愛情」というパンを大量にゲットする方法がある。
それは、自分で大量生産することだ。

「こんな愛情をもらった!嬉しい!」
と、感謝して、思い出して想像することで、「愛情」は増やすことができる。
でも、不幸な人ほど、「不幸」を思い出して増やすことは得意だけれど、
「幸せ」や「愛情」を思い出して増やすのが苦手だ。だから、器のでかい人ほど、心して、

「幸せや愛情をたっぷりもらった。もらった。嬉しい、嬉しい」
と、自力で、「愛情」を増やす努力をすることが必要になる。

それから、一番重要なことは、「私は世の中で一番、愛情が足りない。
世の中で一番不幸」と、自己暗示をかけていると、
「自分よりもっと、愛情が足りなくて、不幸な人」をみつけると、

「もっと、不幸で、愛情のない状態にならなきゃ」
と、自分を追い込んで、ますます「不幸」になるものだ。だから、気をつけたほうがいいかも・・・。

幸せになりたかったら、なるべく、
「私の器は、すっごく大きいのよ!
だから、どうせ、誰も、私の器を満たすだけの愛情なんて、持ってないし、
注いでくれないに決まってるわ。どう?チャレンジしてみる?

でも、絶対に無理だと思うけどね」
という「自分の器の大きさ自慢」はやめて、小さい器でも、
なみなみと愛情で、いっぱいにする方が、ずっと幸せかも・・・。


でも、うちのルナ子なら、めげずにたくましく、たっぷりの愛情をでかい器で要求しそう!
ああ、私も、ルナ子みたいにたくましい性格になりたい・・・?!




 2003年3月31日
映画「能楽師」

先日、渋谷のさくら通り沿いのユーロスペースで上映している
「能楽師」という映画を見にいってきた。


主演は、T先生のおじさんのS先生といとこのY先生だ。

1時間あまりの短い映画だったが、とても内容が濃くて、充実していて、
考えさせられる映画だった。
狭い劇場だったので、満員御礼で、立ち見が出ていた。

内容は、「世阿弥の「風姿花伝」さながらに生きる「能楽師の生活、一生」の、
ある一年を追う」という感じ。


映画を見て感動したことを、思いつくままに箇条書きにしてみた。

 
まず第一に感動したのが、役者の呼吸が伝わってきそうなカメラワーク。
普段、NHKの「芸能花舞台」などをみていると、
「生のお能のドラマチックさというのは、絶対に映像では伝えられない。
お能の本当の良さは、生で見た人にしかわからないなー」

と思っていたのだけれど、この映画をみて、
「映画でも、生のお能の感動をある程度は伝えられるんだ!」
と感動した。とはいえ、生の感動には及びもつかないけれど・・・。
それでも、3次元の世界をあれだけ上手に、かつ忠実に、2次元に再現できるなんて、
このカメラマンと監督、実はすごい人かも・・・と思った。

と、同時に、生の舞台を見たときになぜ感動するのか・・・
というのも、ちょっとだけ、わかった気がする。


生で舞台をみていると、知らないうちに、エキサイティングな場面だけに目がいって、
他のものを見なくなっていたり、役者の呼吸や心だけを感じていたりするのかもしれない。

だから、映画にするときに、そういった点をオーバーなくらいに強調して表現すると、
感動が伝わってくるみたいだ。


たとえば、画面いっぱいいっぱいに、役者を映してみたり、
すべての音を消してみたり・・・という技術を使うと、生を見ているときに、
観客が自分の心のスクリーンに映し出しているような映像になるのだ。


映画中の舞台シーンでは、平成14年に上演された「道成寺」中で、
後シテがシテ柱に寄りかかるシーンが映ったのだけれど、

「そうそう、このシーン、生で見ていてめちゃくちゃ感動して切ない気分になったんだわー。
やっぱり、感動するところって、みんな同じなのねー」

という感じで、当時の生の感動がそのまま心によみがえってきて、嬉しくなった。

また、2番目に感動したのは、能役者の方々が舞台で一番いい状態になったときの
精神状態について、生の声を聞けたことだ。

Y先生の「一点以外、他に白くなって、自分も観客も何も見えない瞬間がある。
その瞬間になると、『きたきたきた・・』と思って、うれしくなる」というようなお話。

S先生の「一昔前のテレビゲームで、戦艦大和を追撃するときのように、
ピッピッピとレーザーが走っていって、(役者の心が、観客の心に)ぶつかる瞬間がある。
そのように、「心が観客に届くまでは動かない。
動くべき瞬間は、今じゃない・・・」と思うときがあった」という話。


私も似たような「特殊な精神状態」になる経験をカウンセリングをしているときや、
講演会をしているときに時々感じることがある。


実は、能舞台を見ていて、

「この能楽師さんは、今、こうした「特殊な精神状態」に入ってるんじゃないだろうか」
と、感じることがあって、一度、その辺のことについて聞いてみたいと思っていた。
でも、この映画の中で、それが証明されたような気がして、嬉しくなった。


また、個人的には、うちのT先生が謡っているシーンが一瞬あったのだけど、
すごくいい「波長」の感じられる声だったので、
「これは、生で聞いたら、相当よかったはず」と思って感動した。


そして、なにより、映画の中で、私が一番共感したのは、S先生の話だった。
「覚悟を決めて、一歩一歩歩く」
という話は、死が目の前に迫っている患者さんたちが、
「明日は、動けなくなるかもしれない。
生きていないかもしれない」と毎日思いながら生きている姿にとても似ている気がした。
また、S先生の話を聞いていて、

「この世で得られるすべてのものを得た後、死を前にして、
また、一つ一つ全部を執着せずに捨てていく覚悟を決め、ただの「私」だけになって、一生を終える」

という人生の原則が「能」の中に見事に集約されているんだなあと思って、感動した。
本当に、人生の最終コーナーを曲がりつつある人の話は、優しくて、あたたかい。
聞いていてとても楽しい。
ある意味では老いは悲壮な話でもあるのだけれど、映画の中のS先生の話を聞いていて、
思わず、ニコニコ微笑が漏れてしまった。


そして、この日は、おまけがついた。
偶然にも、私の隣に主演のY先生一家が座った。
私の隣には、Y先生の息子さんが座っていたのだが、
抱っこしている青いくまさんと一緒に、映画をみている姿は、舞台で子役をやっているときとは、
また違って、「子供らしくてかわいいなあ」と思った。

ほんとに、ほのぼのと温かそうな御一家の様子を間近で感じられて、
こちらまで暖かい気分になって、とっても得したような気持ちになった一日だった。





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