ひまわり先生のひとりごと (2004年11月) |
2004年11月1日 |
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少し前に、ディズニーシーに行った。
以来、いろいろなことを考えさせられている。
この世に生まれて、ある時間を過ごして死んでいく…というのは、
「遊園地に入園して、一定の時間過ごして、帰っていくこと」と、
案外似ているかもしれない。
ある人は、開園から閉演まで、目いっぱい遊園地を楽しむけれど、
ある人は、「疲れちゃったから、午前中だけでいいや」と帰る。
遊園地という場は、まったく同じだけれど、どのアトラクションを選ぶかによって、
一日過ごせる内容はまるっきり変わってくる。
ある人は、絶叫系のマシーンばかり乗って、
「遊園地は、スリルとサスペンスに富んだところだよ。
超怖いけど、ハラハラドキドキが楽しい。心臓の悪い人にはよくない所かもね」
なんていうかもしれない。
また、別の人は、ファンタジーで楽しい乗り物だけを選んで、
「遊園地はとっても、ふんわりしてて楽しいところだよ。何度も行きたいなー」
というかもしれない。
また、遊園地で働いている人は、
「他の人ばかり楽しんで、私は、働いてばかりでちっとも楽しめない」
というかもしれないし、反対に、
「人に夢を売りながら働けて、人の幸せそうな顔が見られて、自分も楽しい思いができて・・・、
こんな幸せなことはない!」
という人もいるだろう。
また、友人と一緒に行った時には、自分の意見を言わないと、
自分の乗りたいものには乗れない。
逆に、自分の意見ばかり通していたら、友人と決別してしまうかもしれない。
また、好みが近い友人と一緒の方が、楽しさは共有しやすい。
でも、性格の違う友人と一緒に遊べば、違った楽しさが発見できるだろう。
しかし、相手が、まったくまわりのことは眼中にない人のときには大変だ。
大っ嫌いな絶叫マシーンに乗せられて、恐怖と吐き気に襲われ、救護室に運ばれ、
「遊園地は恐ろしいところだ!二度と、行かないっ!」
と、遊園地の片隅で、ずっと恐怖の体験を頭の中で反芻しながら、
震えて動けなくなってしまう人もいるかもしれない。
こういう人は、それでも、勇気を振り絞って、自分の力で、
自分に合ったアトラクションを体験してみないと遊園地の楽しさは味わえないし、
頭の中の恐怖は消えてくれない。
また、こんな人もいるかもしれない。
「私はこのピーターパンのアトラクションが大好きだ!
これに最初に乗ったときの幸福感が忘れられない。
これ以上の素晴らしいアトラクションはないはず!
最初の感動を忘れたくないし、他のアトラクションに乗って、
「やっぱり、ピーターパン以上のものはない」とがっかりしたくないから、他のものには乗りたくない!」
と、一つの幸福にしがみついてしまう人。
こういう人は、他のもっと楽しい体験が出きるチャンスを逃してしまうかもしれない。
閉園までの時間は限られている。
できるならば、自分なりのやり方で、一緒の人たちと楽しみながら、
遊園地を味わえたら、楽しいんじゃないかな。
話は変わる。
先日、若いお坊さんたちを相手にお勉強会をした。
彼らに「病気で死ぬ」という仮想体験をしてもらった上で、自分の人生を振り返ってもらい、
「よかったこと」「誉めてあげたいこと」「やりのこしたこと、後悔している事」
「自分の人生を一言で表現したら?」
という項目を考えてもらった。
大多数の人が、「やりたいことは全部やってきたから、自分の人生に満足している。
自分に生まれて、この家族の元に生まれて、とてもよかった!」
と答えてくれたので、すごくびっくりした。
医師という職業柄、私の周りには、心と体の病気を抱えている人しかいない。
そのため、私の周りの人はほとんどすべて、「後悔」だらけで生きている人ばかりだ。
実は、これって、とっても不自然な環境なんだということに、今更のように気がついた。
確かに、今時の若い人たちは、「他の人がどんなに苦しい思いをしているか」
ということに目が行かず、自分の幸せだけを追求しているから、幸せ…という人もいるだろう。
でも、逆にいえば、年を取っている人たちは、周りの人の視線や意見ばかり
気にしすぎて、「何をすれば、自分は幸せと感じるのか」ということを見失っているともいえる。
神様の目から見たら、バランスが取れてないことでは、変わりはないんじゃないかな。
でも、バランスが取れてない人生も、神様から見れば、ちゃんと意味がある人生に違いない。
また、もう一つ、若者がすごい、と思ったところは、「今」だけを見つめていること。
「先のことは、先で心配すればいい。過ぎたことをクヨクヨしたって、幸せは掴めないじゃん!」
と、しっかり「今」を見つめている。
だから、「幸せで、後悔がない」のだと思った。
今回の勉強会では、私のほうが勉強させてもらった気分だ。
「今時の若者は」という言葉で、若い人を一くくりにせず、
若者の言葉に耳を傾けてみると、私たちが忘れかけている何かを教えてくれることが
たくさんあるのだと思った。
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2004年11月8日 |
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こういう商売をやっていると、いろいろな方々から、いろいろな宗教関係の本やら、
精神世界関係の本を贈っていただくことが多い
お気持ちは、とても嬉しいけれど、その系統の本はひまわりには溢れるほどあるので、
「私に送る分、本当にその本を必要としている他の方に、プレゼントしてくださると、
ずっと嬉しいんだけどなあ」
と思う。
ちなみに、自分でいうのもなんだが、私はいろいろな宗教
(昔ながらのものから、新興系まで)、精神世界系にはけっこう詳しい。
かなり(ほとんど?)の本を読破しているし、有用な本はほとんど持っている。
ただ、商売柄、あまり一つの宗教の教義やニューエイジ系の考え方を
前面に押し出して話さないようにしている。
なぜなら、宗教的な話は受け止めにくい人がまだまだ多いからだ。
そういう人に対しては、エッセンスだけを、その人の実生活に応用して話した方が、伝わりやすいものだ。
また逆に、宗教をやっている人には、できる限りその人の宗教にあった形で話をする法が伝わりやすい。
なので、広く浅くいろいろな本を読んでいる。
ちなみに、いろいろな宗教本、精神世界本を読んでいると、
枝葉の部分はいろいろあって、一長一短でも、本質的な部分は同じであることがわかる。
そして、どんなにいい本(宗教)も、伝える人自身が完全でない以上、
完全ではない(というか、人間はそれぞれ違うから、万人向けのものはない…
といった方が正確?)。それは、昔ながらの経典にしても然りだ。
だから、こうした本を読む時に、一番大切なことは、
「本を鵜呑みにせずに、自分の心の奥深くの感覚と照らし合わせて、
「自分に合っている」と感じるものを見極めること」
だ。
ちなみに、自分にふさわしい本(教え、物事・・・etc)が、
その時々で変わっていくこともあるだろう。
例えば、ある時期には、「がむしゃらに限界まで、突っ走ることが大切」だった人が、
時が経って、「ただ静かにそこにいて、必要と感じたことだけをする」ようになることがある。
前者の時なら、「行動することで、自分を探そう」的な教えがいいだろうし、
後者なら「瞑想の中で、自分を見つける」的な教えがいいだろう。
どちらが、合っている、間違っている…といった問題ではない。
自分が心から、「ああこれは、今の私にふさわしい」と思う本や宗教を選べばいいと思う。
・・・ということで、最近、よく、いろいろな方から、
「精神的なことや、世の中の仕組み、宗教のあり方ついて理解するのに、
先生なら、どんな本を薦めますか」
という質問を受けるのだが、一概に、これが絶対にお勧め、というものはいいにくい。
なので、ここではタイプ別に、特定の宗教に絡まない、一般向けの本をいくつか紹介する。
ごく一般人向けで、実生活に役に立つ形で、しかも優しい言葉で、
この世の仕組みと生活方法について書いてあると思うのは、江原啓之さんの本だ。
あと、飯田史彦さんの本もわかりやすい。
もう少し、上級者向けで、実生活に無限の応用性があると思うのは、
サネヤ・ロウマンの本。ちなみに、私は10年近く、この本をバイブルにして使ってきた。
(読まれるなら、「リビング・ウィズ・ジョイ」が、一番内容が優しいので、入門にはお薦め)
よりスピリチュアルな見解を深めたい人には、シルバーバーチやホワイトイーグルがいいかも。
企業の第一線などで活躍してきた男性には、ジェームス・アレン、中村天風、
村上和雄、天外伺朗、江本勝、ジェームズレッドフィールド、ナポレオン・ヒル、
マーフィー…などなどから入るのが、抵抗ないかも・・・。
自分の本ならば、「心に天使…」と「絶対しあわせに…」に、生きることのノウハウは全部収めてある。
もちろん、ここにあげた以外にも、いい本はたくさんある。
ちなみに、先日は、「神との対話」シリーズを読み直してみた。
この本は、立ち読みした時には、
「うーん、当たり前のことしか書いてない」
と思っていたが、あらためてじっくり読んでみると、言葉がとてもわかりやすく、
一番大切なことだけが書いてあることが、よくわかった。
似たような系統の本に、「バーソロミュー」という本があるけれど、それよりは、一般向けだと思う。
ちなみに、こうした、すべての本や宗教に共通している、「真実」はとても単純だ。
それは、いろいろな宗教や古典でも言い古された一言につきる。
「神や仏は、すべての人の中にある。すべては一つ。
そして、すべてはとどまることのない変化そのもの」
ということ。
単純だからこそ、良くも悪くもいろいろな形に変えられていき、
「中心の部分」が見えなくなってしまいやすいのだろう。
実は、この単純なことを理解することが、とても大変なのだ、と
しみじみ思う今日この頃。
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2004年11月15日 |
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先日、新潟へ講演会に行ってきた。
新潟といっても、上越の方だったので、この地域はほとんど被害はなかったそう。
でも、親類縁者が、長岡あたりにいる方も多く、
炊き出しの手伝いなどに奔走しておられた方も多いようだった。
そんな中で、いろいろと興味深い話をたくさん聞かせていただいた。
たとえば、今回被害にあった地区は、戦争体験者であるお年寄りが
多く住んでいた。そのため、こうしたお年寄りは、若い人よりも肝が据わっていたそうだ。
たとえば、余震が続いて、若い人たちが恐怖と不安におびえていたときにも、
「なあに、戦争のときには、いつ爆弾が落ちてくるともわからない状態だったから、今よりひどかったさ。
それに、建物だって、ほとんど残っていないくらい焼け野原だったんだ。
そこから、ここまでに復興したんだから、このくらいなら、たいしたことはない。
腹を据えて、どーんと、構えてりゃいいんだ」
と、力強い言葉を話しておられたとか…。
そんなお年より立ちの体験談に、励まされて、不安と恐怖が和らぎ、
余震の中でも、がんばれたという話も、何人もの方から伺うことが出来た。
大変なことをしっかり乗り越えて生きてきた人は、その後の人生で、大変な出来事に出会っても、
「このくらい、なんてことないさ」
と、さらっとかわして生きていけるのだろう。
同じ様に「ひどい震災に遭う」という体験をしても、それぞれの心のもち方、
対応の仕方一つで、「とても不幸な体験」になるか、
「人生の大きな素晴らしい転機」になるかが、決まってくるのだと、実感した。
人生の大先輩に、「強く自分らしく生きる意志を持つこと」の大切さを教えられた一時だった。
もう一つ、震災関連で考えさせられたこともあった。
ボランティアの問題だ。
実は、勢いでボランティアに行ったはいいけれど、何をしたらいいかわからない上、
食料、着る物など、十分な準備をしていかなかった為、
かえって迷惑をかけることになってしまっている人も少なくないらしい。
更に、「手伝い」という以上は、相手の意向に沿う形で動くことが望まれるが、
自分勝手な行動をして、かえって状況を混乱させてしまう人もいるとか。
ボランティアのあり方の難しさも、しみじみ考えさせられた。
いろいろな貴重な話を聞くことができた一日だった。
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2004年11月22日 |
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ここ、2週間くらいかけて、「神との対話」シリーズ7冊を一気に読破した。
以前の「ひとりごと」にも書いた通り、この本の内容そのものは、
同種の本の中で言い古されたことばかりだ。でも、私にとっては
「知識として知っていたことを、深い体験として、自分の中に落とす」
きっかけになった。
何がよかったかといえば、対話形式の書き方だ。
実は、繰り返しの内容が多くて、読みながら
「この作者は、何回同じことを「神」に聞きなおしているのだろう!!
それは、もう何十回も、質問したことじゃないか!」
とイライラさせられることもあった。でも、そうした未熟とも言える会話を
根気強く読み進むことが、私にはとても役に立った。
なぜなら、自分の心の中の自問自答ととても似ていたからだ。
読み進むうち、
「ああ、神様とではなかったけれど、全く同じ様な会話を
自分の中でよく自問自答していたよなー。
私も、こうやって、何度も繰り返し自問自答しながら、おっかなびっくり、
「直観」に従って生きるうちに、幸せになってきたのだった」
という気持ちが強くなってきた。
作者の「神」との対話は、まさに、私が幼稚園児の頃から、
自分の中でしてきたことと、瓜二つだった。
ただ、私は、「神」と対話したことは一度もない。
その時々にふさわしい「アイデア、疑問、解答」が「直観」という形で、浮かんでくるだけだ。
そして、浮かんできた「直観」をいろいろな角度から検証する為に、自問自答をしてきた。
例えば、子供の頃は、こんなことを考えていた。
「大人たちはなぜ、自分たちがけんかばかりしているのに、
子供にはけんかはいけないって言うんだろう。
大人たちはなぜ、自分たちも使いこなせていない物理や数学の知識を、
子供たちに勉強させて、その理解度だけで子供の人間性を評価するのだろう
なぜ大人たちは、自分たちがされたくないことを人にするのだろう。
なぜ、大人たちは自分たちができないことを子供に要求するんだろう。
なぜ、大人たちは、自分たちの言っていることと、行動に矛盾があることに
気づいてないのだろう。
神様って、本当にいるの?本当に罰を与えるの?
賽の河原で、石の塔を積み上げられなかった子は、本当に極楽にはいけないの?
どんなにいいことをした子でも、石の塔が壊れたら、極楽にいけないの?
神様とか、仏様って、愛情深いのに、一回でも、悪い事をしたら許してくれないの?」
当時、周りの大人たちに、そうした疑問をぶつけてはみたけれど、
誰一人として、ちゃんとした答えをくれた人はいなかった。
そのため、自分の考えがあまりにも突拍子もないものに思えて、
「私一人が、他の星からきたエイリアンなのかしら?
この社会は、とっても矛盾だらけで住みにくい。自分の本当の故郷に帰りたい」
と、ずっと思っていたものだ。
そのせいか、この頃、毎晩のように、
「吸血鬼になった家族に殺されそうになる夢」とか、「殺人鬼に追いかけられる夢」
ばかりみていた。それでも、「眠っている方がまだ楽で、まし」と思っていたのだから、
よほど、日々の社会生活に疲れていたに違いない。
大人になってからも、私の「直観」が感じていることと、社会の規範が違うことは多々あった。
例えば、ホスピス医になったばかりの私の「直観」は、
「すべての人が「ありがとう」と感謝しながら、死ねるように指導することが、
ホスピス医の務め・・・って、みんなは言うけれど・・・。
本当にそれが、すべての人にとっていいことなのかなあ。
「ありがとう、っていえないとダメだ」という目で、医療スタッフから見られたら、
かえって、プレッシャーがかかって言えなくなりそう。
むしろ、「死にたくない!って、わめいていいんだよ」って言われた方が、
ホッとしないかな?私なら、そのほうが安心する。
それに、その方が人間らしい気がする」
といっていた。
でも、多くの人からは、
「医師として未熟だから、すべての人が、「ありがとう」と言わせられないのだ。
自分の未熟さを、そういう言葉でごまかしているだけだ」
と、随分非難されたものだ。
こんな風に、子供の頃からずっと、自分の「直観」を通そうとすると、
そのたびに非難轟々を受けて、ひどい目に合ってきたものだ。
もちろん、社会規範を受け入れようと、努力も随分した。
確かに、努力をすれば、周りの人とはうまく行った。
でも、私が感じる「本当の幸せ」とは、どんどんかけ離れていくような気がしてならなかった。
そこで、まずは、差し障りのない範囲で、「直観」を利用することにした。
例えば、患者さんのカウンセリングをするときなどだ。
患者さんの話をじっくり聞いていると、必ず、「あ、これが答えかも」というものが落ちてくる。
時にはものすごく突拍子もない答えが落ちてくることもあるが、
その通りにすると、必ず、いい方向に向く。
こうして、自分の直観の正確さを信じ始めた頃から、
「周りの人々と摩擦を起こさない形で、静かに、自分の直観に従った行動を実践する」
という努力をはじめた。
実は、その本格的な努力の手始めが、「ひまわりクリニック」だった。
「誰にも迷惑をかけず、自分の行動の責任は、すべて自分で取る」
という状況下であれば、私が直観に従って生きていても、
誰も文句は言わないだろうと踏んだのだ。
はたしてその通りだった。
こうして、周りの人とほとんど摩擦を起こさず、自分の直観も大切にできる生活を
工夫するようになると、だんだん、私が考えていた「幸せ」に近づいていく気がした。
そして、それが大きな実績となったときには、世間の多くの人たちが、
私の言葉に耳を傾けてくれるようになった。
なぜ、ここまで自分の「直観」を大切にしてこれたのかと、ふと、省みてみると、
「直観は、神の声、魂の声に最も近いものである」
という、いろいろな書物の中にあった言葉に励まされたからに他ならなかった。
それでも、心のどこかで、「直観だって、私なんだから、間違うことだってあるのかもしれない」
と、信じきれずにいる部分もあった。
でも、今回、「神との対話」シリーズを読破して、やっと、自分の体験の中で、
「ああそうか、ほんとに、直観が「神」なんだなあ。
なんだ、ほんとに、「神」は自分の中に子供の頃からいた(あった?)んだー。
だから、もし直観が間違うことがあるとしたら、「間違ったように見える道」を行くことが、
自分の人生に必要だからなんだー」
と、ストンと、落ちて、なんだかスッキリした。
いろいろな宗教の中でずっといわれてきた、
「神や仏は、自分の中にある」
という言葉。
実は、この言葉の深い意味を、できるだけ心の奥深くで
自分のものとして体験することができたら、人はみな楽になるのかもしれない
・・・と思う今日この頃。
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2004年11月29日 |
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先日、出張へ行った帰りに、思いもかけぬいい時間を過ごせた。
乗り物が苦手な私は、いつもなら、飛行機の中では爆酔しているのだが、
その日はたまたま、どういう訳か目が冴えて、ボーっと外を眺めていた。
雨のフライトだったので、最初、景色は雲の切れ間にしか見えなかったのだが、
いつの間にか、雲一つない天気となり、美しいうす赤紫の空の中にきれいな満月が浮かんでいた。
それだけでも、この世のものとは思われないくらいの美しさだったのだが、
飛行機が旋回して、二度びっくり!
まるで地平線が濃い虹になったようなそれはそれは美しい虹色の空の中に、
真っ黒な富士山がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
この世のものとは思われないような美しい虹色の空は、ほんの3分ほどしか、続かなかったように思う。
徐々に光が薄れていき、あたりは暗闇に包まれた。
同じ飛行機に乗り合わせた人々も、みな、一様に感激していたらしく、
カメラつき携帯を持っている人は、こぞって、写真を撮りまくっていた。
あれだけ美しい虹色の空に出会えることは、一生のうちで、何度あるかわからない。
出会ったとしても、あれほどの絶景スポットで、味わえるとは限らない。
お金では決して買うことのできない一期一会の幸せに出会えることが、
生きていることの醍醐味だなあと、思わせされた。
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