ひまわり先生のひとりごと (2004年5月) |
2004年5月10日 |
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GWあれこれ
GW中は、いろいろなことがあって、かなり考えさせられることも多かったので、
トピックを一つ二つ・・・。
まず、Aさんという、私よりほんのちょっと年下の女性がなくなられた。
彼女は本当にすごい人生を生ききった。
私は逆立ちをしても、彼女のような人生を生きられるような強さは持っていない。
彼女は、自分の人生を生き切っただけで、すごく大きなことを成し遂げたのだと思う。
彼女は女性として一番輝けるときに重い病気を患い、
以来、十数年、寝たきりで、腕がほんのわずかに動かせるだけの状態で
毎日を過ごしていた。もちろん、寝返りは自力でできず、食事も取れない。
また、薬にアレルギーがあるため、痛みがひどくても、薬があまり使えない。
そのため、ストレッチャーや車椅子への移動もままならず、
毎日、病院の天井だけを見て過ごしていた。
全身の筋肉はなえて、骨のうえに一枚皮をかぶっているだけ・・・というくらい
やせ細ってしまっていた彼女にとって、からんだ痰を一つ出すことだけでも、
普通の人が20キロの荷物を背負うのに匹敵するくらいの重労働だった。
一つの痰を出すのに、1−2時間悪戦苦闘するのだ。
だから、風邪を引いたときなど、本当に最悪で、
「生き地獄というのはこういうものかもしれない」と思わされたものだ。
こうした苦しい生活を強いられている病人にとっては、ある意味、
「あと3ヶ月」と余命がはっきりわかっている方が、楽なこともある。
「あと、3ヶ月なら、何とか、我慢しよう」と思えるからだ。
あるいは、痴呆などにかかって、苦しいことが半分くらいわからなくなっていると楽だったりする。
でも、あとどのくらいこの生活が続くのかわからず、意識もはっきりしていて
とても聡明な人だった彼女にとっては、本当に日々が地獄の責め苦のようだったのではないだろうか。
それでも、彼女は死に急ぐことなく、病気による衰弱が極限に達するまで、生き続けた。時々、
「辛い。苦しい。何とかならないかなあ」
と、愚痴をこぼすことはあっても、
「私は自分の人生をのろってやるっ!」とか、「こんなに辛いなら、一思いに殺してよー!!」
とか、泣き叫んでいる姿は一度も見たことがない。
彼女の診察をするたびに、私は、
「ああ、私は、食事が食べれる口、歩ける足、自由に物を持てる手を持っていて、
働くこともでき、たくさんの友人と交流することもできる。
こんなにたくさんものをもっているのに、そうしたものへの感謝がなかったかもしれない」
と、反省させられていたものだ。
凄まじい運命を背負いながらも、最後まで天命を全うして生き抜いた彼女に、
最大級の拍手を送ると共に、彼女を支えた家族に敬意を表したい。
閑話休題
GW中、私はいろいろな神社巡りにいそしんだ。
今回お参りした中の一つは、石神井の氷川神社。
ここは、とっても優しくて暖かくて清楚な「気」に溢れた、人を招くような神社だった。
大宮の氷川神社が、とっても緊張感が強くてピリッとした「気」を出しているのと、好対照。
神社の「気」というのは、祀ってある祭神の影響だけでなく、
土地や神主さんの持っている「気」の影響をとっても受けるのかもしれない。
神主さんの優しい性格が神社の隅々にまで、行き渡っているのかなあと、
思った(実は、ここの神主さんはお能仲間)
ちなみに、私ははじめて石神井公園に行ったのだけれど、
「気」が良くてびっくりした。石神井池は、ファミリー休日向き憩いスポットだし、
三宝池周辺はマニア向けヒーリングスポットという感じ。
都内でお手軽に森林浴をしたいときには、オススメです。
ところで、氷川神社の神主さんからは、神社で起こったちょっといい話をいっぱい聞かせてもらえた。
中でも感動したのは、「今時の青年たちが、困ったときに、神社とかかわることで、
見失いかけていた自分を見出した」という数々のお話。
「ちょっとグレかかった青年が、ぶっきらぼうな言葉で、「神様はいるのか?」と、
神主さんに問い掛ける中で、答えを必死で探し出そうとしていた」とか、
「若者たちが、友人のためにお百度を踏みにきた」という話には、心温まった。
この神社では、季節ごとの行事やお祭り、そして石神井公園の整備などを通して、
地元と深くかかわっているそうだ。
おそらく、「子供の頃、あの神社のお祭りに行って、とっても楽しかったな」
という思い出が作られるだけでも、人生の道に迷ったときに、
「そうだ。昔、よくお祭りにいったあの神社に行ってみよう。なにか答えが見つかるかも」
と、足を運び、立ち直るきっかけになることもあるのかもしれない。
「土地に根付いた神社、寺」があるって本当に素晴らしいと思う。
ところで、神社の話を書いててふと思ったのだけれど、
最近、私の友人は圧倒的に、医者よりも、神職者、僧侶、占い師、文筆、
芸能関係者が多い。またひまわりの診療も、がんの相談より、生き方相談のほうが圧倒的に多い。
時々、自分の職業がわからなくなるのはそのせいかなあ(笑)
あなたの知らない世界
子供の頃、ワイドショー番組でやっていた「あなたの知らない世界」という
「霊」にまつわる話が結構好きだった。
ついでに、いたこさんやユタ、巫女さんなんかの話は、子供の頃から大好きだ。
そのせいか友人たちからは、「巫女さん体質」だとよく言われる。
でも、私には霊もなんて見えない。
でもでも、下手な霊能者よりは、今会ったばかりの人の問題や生活状況、
はまりやすい問題は、「見た瞬間」に見抜く力はあるかもしれない。
ところで、霊能者もピンからキリまであって、その人の眼鏡で見えるものしか
見えないんだそうだ。
つまり、「地獄しか見えない眼鏡」をかけている霊能者は、
相手の後ろについている地獄絵図しか見えないらしい。
本物の人ほど、地獄も天国も客観的に見えるんだとか。
だから、霊能者がクライアントにいろいろなアドバイスをしている番組などを見ると、
「そのくらいのことなら、霊能力がなくても、私だって、見ただけでわかるよー。
確かに、この人にはそういうマイナスの面もあるけれど、こういうプラス面もある。
どうせだったら、マイナス面をこういう風に活用する方法を教えてあげれば、
プラスに役立てていけるから、違う未来を歩けるのに・・・」
と、歯がゆく思うことも少なくない。
その点では、江原啓之さんは「この人は珍しく本物じゃん!」と思う。
カウンセリングの仕方も実にうまい!
彼の本には私の言いたいことがほとんど全部書いてあるから、
こういう本がベストセラーになってくれることは、本当にいいことだなーと思う。
ただ、ものすごくいいアドバイスをしているのがわかるだけに、
「この人のアドバイスの価値がわかる人がどのくらいいるんだろう」
と、逆に歯がゆくなることもある。
「江原さんのアドバイスを大切に何度も何度も噛み締めて生きていけば、
その時々で、さらに深い味わいが感じられて、この人の人生は180度変わるだろう」
というくらい、すごく適切で、人生の先々にまで役立つ深いアドバイスをしていたりする。
本当に、その手法には脱帽だ。
たぶん、ここまでくるまでには、江原さん自身、相当な苦労をしてこられたんだろう
・・・というのは、ものすごくよくわかる。
それだけに、アドバイスをもらった人が、
「この人は、たぶん、江原さんの言葉も、街角の怪しい占い師さんの言葉も、
同等に考えてしまうんじゃないかなー」
と確信できてしまうようなときには、見ていて、気の毒になることもある。
また、
「番組制作側がウケねらいのために、かなり無理をさせているなー。
これだけの能力者だと、逆にこういう仕事をさせられるのは大変なはず・・・」
と思うことも多々ある。
それでも、真摯に
「本人や番組制作者にその意図がわからなくても、
たまたまその番組を見た人が、そのことを役立てればいい」
と思いながら仕事をしておられることがひしひし伝わってくるだけに、
「本当に、大きなご奉仕、ごくろうさま!」といいたくなる。
こういう実力派の本物の霊能者の人は、周りにつぶされないで、がんばっていってほしいものだ。
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2004年5月17日 |
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週末、久しぶりに、泊りがけで出張に行ってきた。
基本的に、私はあまり、泊りがけで出張には行かない。
なぜなら、乗り物に弱いからだ。
乗り物に長時間乗った夜は、ダウンしてしまうし、翌日も、半日くらいは、身動きが取れないのだ。
だから、乗り物に乗る日は一日にまとめてしまって、翌日はなるべく体を休めるようにしている。
今回は、たまたま泊りがけにしたのだが、さすがに、乗り物に乗っている時間が少ない分、
当日の疲れは少なかった。でも、やはり翌日は、丸一日、何もできずにこんこんと眠り続けることになった。
こんな風に、時々、普段と少し違うことをやってみると、
「ああ、やっぱり、自分の体質には、少々無理しても、日帰りをする方が、合っているかも」
と、「自分の特徴。自分に合うやり方」が、しっかり確認できるいい機会になっていい。
同じ様に、自分の身のまわりの小さなことも、
「本当に、このやり方でいいかな。ほかに工夫ができるかな。
たまには別のやり方をしてみよう」
と、折に触れて考え、実行すると、新しい発見があるものだ。
ちなみに、今、私は全面的に、仕事のやり方、趣味の取り組み方を検討中。
身のまわりをできるだけシンプルにしてみると、
「ああ、大切なことは、本当にわずかなものなんだな」
と、発見する今日この頃。
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2004年5月24日 |
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先週、今週と、いろいろな人から、
「神様って、本当にいるのかなあ・・・。
だったら、何で、こんな不幸で辛い人生を送ることになったんだろう。
神様に見捨てられているからかなあ・・・」
という疑問を投げかけられる機会が多かった。
人生に大変なこと、嫌なこと、辛いことが起こると、ついつい、人は、
「この世に、神も仏もないもんだ」という気持ちになってしまうものだ。
ちなみに、いろいろな宗教の本には、
「神の国(天国、慈悲の世界、絶対的な幸福世界)は、今ここにある」
と書かれているが、不幸のどん底にいるときには、
「嘘だ!この世には、犯罪、殺人、争い、病、死などいろいろあるじゃないか!
こんな悲惨な世の中のどこに、神の国や天国があるっていうんだ!」
と言いたくもなるだろう。
たぶん、この世の中の人間全員の心から、「争い、ねたみ、憎しみ」
などの感情がなくならない限り、世界から、争い、犯罪などがなくなることは絶対にない。
また、そうしたものが無くなったとしても、病、死は無くならない。
だから、「神の国、天国」を、「争い、憎しみ、病、死などが、全く存在しない外的環境」
と定義して、求め続けるなら、絶対にそれを得ることはできない。
でも、そうした「あまり好ましくない外的環境」に生活しながらも、
それに巻き込まれることなく、心に「平安と安らぎ」を持ち続けることはできる。
例えば、ある日突然、「がんにかかって、あと1ヶ月の命」と宣告された場合。
「なぜ、私がこんな目に合わなければならない!私は不幸だ。神を呪ってやる」
と考える人と、
「人は生まれた以上、必ず死ななければならないのなら、急死するよりも、
死期がわかっていた方が、身辺整理ができていい。いい病気にかかった」
と考える人では、「残された1ヶ月」の間に感じられる幸福度は大きく違ってくるだろう。
まったく同じ環境に置かれていても、影の部分見れば「不幸と絶望の毎日」に感じるし、
光に注目すれば「大変さの中に輝く一条の光のある毎日」を感じられるものだ。
つまり、「周りの環境や人が、こうあってくれれば幸せなのに」とか、
「こういうものを得られたら、幸せなのに」などと、外に外にと幸せを求めている時は、
外界に「幸福」を依存していることになる。
自分以外のものに幸福を依存している間は、「絶対的な幸福」は得られない。
「絶対的なゆるぎない幸福(神の国)」は、実は、「それぞれの人の心の中」にある。
だから、自分自身が、
「どんな環境、どんな状況にあっても、そこには必ず、神や仏とつながるような
大いなる幸いがあるはず。この世の中に存在する幸い(光、神性)をいついかなるときにも探し出そう」
と、常に思い続ける心を持つ事で、周りがどんなに悲惨な状況にあっても、
「神の国」が「今ここ」にもたらされるのだろう・・・。
・・・とまあ、真理はわかってても…実行するのは大変だよねー。(^^;)
ルナ「純子姉って、いっつも難しいことばかり言うよねー。
ようは、私みたいに、毎日楽しいことだけ見て、嫌なことは無視すればいい…ってだけのことじゃないねー♪
ルナってば、毎日天国に住んでる犬?」
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2004年5月31日 |
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昨日、友人のフラメンコの発表会を見に行ってきた。
自分が発表会に出ているときには、自分のことで精一杯だが、
人の発表会を客観的に見ると、いろいろなことがよくわかって面白い。
たとえば、初めて見る生徒さんの踊りでも、よく見れば
「どんなこだわりをもって、日々練習に励んでいるのか」など、とてもよくわかる。
また、観客を観察するのも面白い。
どんな視点で舞台を楽しんでいるかによって、その人が、現在どういうことを
大切にして生活しているかが、わかったりもするからだ。
かく言う私自身は、舞台を見ていて、自分自身のフラメンコやお能に対する
モチベーションがかなり落ちてきていることを実感した。
その理由の一つに、生活のパターンが、「目標に向かってまっしぐら」から、
「ただ、日々、そこにいる」に切り替わっていることもあるのかもしれないと思う。
考えてみれば、私は40年間ずっと、「目標を決めて、それに向けて、必死にがんばる」という生活を続けてきた。
でも、最近の私の生活は、「目標は何もなく、ただ、淡々と日々の生活を丁寧に紡ぐように過ごす」だ。
実は、こういう生活は、今まで一度もしたことがない。
目標がない、しなければならないことも何もない・・・というのは、
とても心もとない感じがする一方、とても平和で穏やかだ。
人生の小休止時間という感じ。
と同時に、ゆっくり立ち止まって人生を振り返ってみると、
「どうにもならないこと」を繰り返し繰り返し悩むことで、相当時間を損していたり、
「人生の流れに逆らったために、苦労したり」ということがずいぶん多かったのかなーということに気づかされる。
自分の人生も、ときどき、小休止して、他人事のように客観的に眺めてみるのもいいもんだ。
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