ひまわり先生のひとりごと (2004年6月) |
2004年6月7日 |
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子供が加害者の殺人事件を見るたび、とても胸が痛む。
殺された被害者はもちろんかわいそうだが、
「実は、一番かわいそうなのは殺してしまった加害者だ」ということに、
気がついている大人はどのくらいいるのだろう。
人は教わらないことは、行動することはできない。
人を殺してしまう人の周りには、「殺すことを教えてしまった誰か」が必ず存在する。
そして、人を殺してしまう人は、「社会から心を殺され続けてきた人」でもある。
実は、人間は、知らず知らずのうち、悪意のあるなしにもかかわらず、
ささいなことで、人の心を殺してしまうことがある。
たとえば、「あなたは体育は得意だけど、勉強は人並み以下ね。それじゃダメよ」
「そんなことをしていると、Aちゃんみたいな乱暴者の悪い子になっちゃうわよ」
などと、他人と比較することで、敏感な子供は、
「今のままの私自身には価値がない」
と、思い込んでしまう。
また、子供がテレビゲームに熱中しているときに、親が
「何、ゲームばかりやっているのよ!そんな暇があったら、勉強しなさい!」
と、いきなりテレビの電源をぶっちぎってしまったとする。
もし、そのゲームがペットや人を育てるゲームだったとしたら、その親は、
「一つの命を殺した」ことになるのだ。
そこで子供が、「かわいいピーちゃんを育てていたのに、お母さん、ひどい!」
と抗議したときに、さらに親が、
「また、暇なときに育てればいいじゃないの!それより、子供の仕事は勉強よ!」
と答えたとする。
すると、その子は、「ゲームの中の小さな命より、勉強の方が大事」と、暗に学んでしまうのだ。
こうして、子供は、
「立派で頭のいい優秀なかわいい子供しか生きていてはいけない。
そうでない人間は、社会の役立たず」と思い込む。
「ありのままの自分の心」がどんどん殺されて行くのだ。
そして、時として苦しさのあまり、暴力行動に出ることになる。
でも、ほとんどの場合、暴力行為を働いた人間の心の奥底にまで、
世間が理解を示すことはない。
大概、理解されず、さらには、「極悪人」のレッテルを貼られたまま、
一生敬遠されて、その人はさらに深い心の傷を残していくのである。
更なる被害者を出さないためにも、必要なことは、非難ではない。
強制ではない。形ばかりの命の教育でもない。
愛情を込めて、日々の生活の中から、ありのままのその子自身の価値を認め、
その子自身の命(心)を大切にしていく愛情だ。
そのためには、家庭の中で一人一人が、お互いに愛情を込めて生活することが大切だろう。
ところで、週末、我が家にも、弟夫婦のおちびさんが遊びにきた。
子供は言葉を学ぶより前に、大人の心と感情を学ぶ様子を目の当たりにした。
大人が穏やかな感情を持てば、子供も穏やかに過ごす。
大人がイライラすれば、子供もそれに反応して、かんしゃくを起こす。
こうして、子供たちはたくさんのことを、日々の中で敏感に学習し、自分のものにするのだろう。
子供を優しい子に育てたかったら、変えるのは子供ではない。大人自身の対応だ。
未来の子供たちの幸せのためにも、まず大人自身が心を引き締めて、
自分の心を磨くことが、第一だと思う今日この頃。
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2004年6月14日 |
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最近、テレビドラマを別の角度から楽しむわざ(?)をおぼえた。
ドラマの重要な場面で、
「もし、この主人公が別の選択をしたら、この後の展開はどうなるか」
とか、
「ここでこの先の人生をややこしいことにしないためには、どういう対策をとるといいか」
とか、
「相手と、もっといい形の会話をつなげるには、ここではどういう受け答えをするとよいのか」
などなど、考えてみる。
すると、たいがい、話がややこしくなるときには、
「自分の価値観(意見)を主張している(相手の価値観が受け入れられない)」
「目先の幸せ(安定)に目がくらんで、本当の問題から目をそらしている」
「自分の気持ちを不自然に押し殺している」
「自分自身が責任をとるべき人生の問題を、人のせいにしている」
「執着心が捨てられない」
などなどがあることがわかる。
うーん、ドラマ一つでも、カウンセリングや人生のいい勉強になる。
自分の人生も、ドラマみたいに遠目で見ながら、自分にしっかりアドバイスできたら、
もっと楽に過ごせそうなんだけどなあ!
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2004年6月21日 |
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私は、時々、周期的に、とても感覚が敏感になる期間がある。
こういう時期は、
「黙って座ればぴたりと当たる・・・」
ではないが、相手を見ただけで、いろいろなことが読める一方、
周りに転がっている負の影響ももらいやすい。
なので、こういう時期は、務めて心のメインテナンスを心掛けるようにしている。
ちなみに、「急に敏感になる」というのは、大げさに例えていうと、
それまで、普通に過ごしていた人が、ある日突然、霊が見えるようになる…
という感じに似ているかもしれない。
こういう経験をした人は、見慣れた日常が、突然恐ろしいものに感じられて、
「うわー、世の中には、こんなに霊がうようよ存在したのかー!!
怖くって、外に出られないよー!」
と、パニックを起こしやすいものだ。
(ちなみに、私自身は、霊も、オーラも見えません。「感じる」ことはありますが…)
でも、急に、いろいろなものが見えたり、感じられたりするようになったからといって、
実は、世の中は昨日までと全く変わりはないわけで・・・。
きれいな花は咲いているし、新緑は目に鮮やかだし、空は青々として澄んでいる・・・。
ところが、敏感になった直後というのは、いいことではなく、
悪いこと、怖いことに目が向きやすい。
なぜなら、いいことよりも、悪いことの方が刺激が強くて、印象に残りやすいからだ。
そのため、敏感になればなるほど、負の影響の方を強くうけることになる。
だから、敏感になっているときほど、自分のメインテナンスをしっかりして、
「世の中、悪いものといいものが混在している。自分がどっちを見るかで、世界の見え方が変わってくる」
と、自分に言い聞かせ、
「自分の見たいものを見、見たくないものは注目しない」
ように、心をしっかりコントロールしていく強い意思が必要になる。
つまり、先ほどの例でいえば、
「霊は今までも、身のまわりにいたんだ。
とりあえず、なるべく見ないようにしよう。
そして、いつも見ている花や、緑、空の美しさを見るようにしよう」
と、努力すること・・・が、「心のコントロール法」になる。
ところが、子供の頃から敏感な人の多くは、こういう原理を知らずに育つために、
知らないうちに、「負の影響」を全身に浴びて、マイナスのものばかりを見る癖がついてしまう。
また、心のコントロール法を学んでいても、たいがいは、
「他人とうまく合わせるために、自分の心をコントロールするように」
と教えられる。
そのため、「なんで、人の幸せのために、自分が我慢しなきゃいけないんだ」
という思いが心の奥底に沈殿して、ある時、大きな爆発を起こすことにもなりかねない。
でも、本当は、「心のコントロール」は、他人のために行うのではなく、自分自身の幸せのためにするものだ。
他の人と仲良く過ごせたら、自分自身が気持ちがいい。
そのために、自分の心をTPOに合わせて、押したり引いたり、
自由自在にできるように調整できるようになることが大切だ。
そして、「心のコントロール」のために欠かせないのは、
「何にも影響されてないニュートラルで、真っ白な自分の心の感覚」
がどういうものかを知っていること・・・だ。
人は、多かれ少なかれ、他人といるときには、他人の固有のエネルギーの影響を受けている。
敏感な人ほど、「怒りのエネルギー」を持っている人のそばにいると、
自分が怒っているのか、相手が怒っている影響を受けてイライラしているのかが、わからなくなりやすい。
なので、敏感な人ほど、毎朝、必ず、自分の心の状態をチェックして、
「私は一人でいるときの心は、こんな感覚なんだ」
と、掴んでおくといい。さらに、
「こんな素敵な気分で毎日過ごしたいなー」
と目標となる感覚があるならば、一日に何度も何度も、
その感覚を心の中に再現する練習をすることだ。
そうすることで、「いい気分」で過ごせる時間も増え、同じ様な「いい気分のもの」に
目が行きやすくなるので、生活の中にいいことが増えるようになる。
また、こうした「感覚」という概念がわかりにくい人は、
「自分が一番心地よく感じられる象徴的な情景」を思い浮かべるといい。
例えば、
「雨に潤う七色のアジサイの花」
「常夏の海辺の風景」
「雪で、真っ白におおいつくされた一面の銀世界」
などなど…
人によって、「心の安らぎ」を感じる原風景は違っている。
そうしたものを、毎日、1−2時間に1度でも思い浮かべることによって、
心の平安、そして、日々の生活の平安に近づきやすくなるものだ。
興味がある方は、お試しください。
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2004年6月28日 |
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取材にこられた記者さんなどからは、
「たくさんの人の悩み事ばかり聞くなんて、大変なお仕事ですよねー」
とよく言われる。
でも、私は好きでこの仕事をしているので、そんなに大変だと思っていない。
なにしろ、「人が楽しそうにしていたり、元気になったりする姿を見るのが、何より好き」
なので、仕事は生活の張りであり、趣味でもある。
むしろ、私の場合、かえって、「自分だけが楽しむ生活」をしていると、ストレスが溜まって仕方がない。
だから、本当に、いい仕事にめぐり合えてよかったと思っている。
ただ、時には、骨身を削りすぎて仕事をしてしまうこともある。親身になりすぎるあまり、私自身、
「この人をなんとかしてあげたい!」
と、思いすぎてしまう時が、実は曲者だ。
実は、私に限らず、医療職についている人の多くは、
来院された方がどんどん元気になられると、自分自身が治しているような錯覚に
陥ってしまいやすいものだ。
でも、本当は、病気や悩み事が治るのは、本人の努力に他ならない。
本人の気持の切り替えと、適切な努力が、治癒に結びつく。
医者やカウンセラーは、あくまでも、サポート役に過ぎない。
ところが、患者さんによっては治りたいあまり、必死になって、
「もっともっと、治して欲しい!このくらい、やってくれて当然」
と、治す力を医療者に求めてくることがある。
その必死の勢いに押されて、知らないうちに、医療者のほうも、
「自分がもっと努力すれば治るんじゃないか。私の努力が足りないのでは?」
と、思い込んでしまうことがある。
そうすると、患者さんも医療者も努力しているのに、
結果として治らない方向にどんどん行ってしまう…ということが、医療の現場では少なくない。
「治す力は、自分の「外」に求めない。
「外」からの援助を受けて、自分の中に、中にと、力を求めること」
この大原則をはずしてしまうと、治る病気も治らなくなる。
私自身も、ともすると、その罠にはまってしまいがちになる。
だから、折にふれて、
「治す力は本人の中にある…と信じて、本人がちゃんと自分を振り返るようにアドバイスできているかな」
と、自問自答することにしている。
それでも、私も人間だから、時々は、勢いに飲まれて、
「本人しか、どうにもできないこと」を「他人である私が、どうにかできる」
つもりになって、無理をして、エネルギー不足になってしまうときがある。
そんなときには、できるだけ意識して、自分の心のメインテナンスをして、エネルギー回復に努めている。
私の場合、エネルギー充電方法は、
「自分の好きなマンガを大量に買い込んで読む」
「買い物をする」
「おいしい食事をする」
「仲のいい友人や、妹弟と話をする(メールをする)」
などなど。
いずれも、「なーんだ」と思うような内容だけれど、できるだけ意識的に、
「今日は、私はエネルギー不足だから、私自身にエネルギーを補充するために、
おいしい食事をプレゼントするの。本をプレゼントするの。会話をプレゼントするの」
と、言い聞かせながら行動するようにしている。
実は、これを意識せずに、「ストレス発散―――!!!」と、
エネルギーの赴くままに、動いてしまうと、度が過ぎてしまう。
「度が過ぎた状態」というのは、いわゆる「過食症」「買い物依存症」「メール依存症」というわけだ。
ちなみに、依存症になりつつある人は、
「こんなに、食べてばっかりいてはいけない!」
と、自分を責めながら食事をしたりするのではなく、
「私は最近、とってもがんばっていたから、ご褒美に、おいしいものを自分にプレゼントしよう」
と、一つ一つ、自分にプレゼントをするように、行動するといいですよ。
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