ひまわり先生のひとりごと (2004年7月) |
2004年7月5日 |
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最近、私はとっても平和な生活をしている。
今すぐやらなければならないこともないし、特に悩み事もない。
そのせいか、庭の木々や花をみていると、
「ああ、私の生活って、植物に似てるかも・・・。
日々、いるべき場所にいて、光合成をするのが日課・・・って感じ・・・」
なんて思う。
今でこそ、こういう生活を、「とっても楽しくて、充実している」と思うけれど、
何年か前だったら、居たたまれないくらい苦しかったんじゃないかなーと思う。
なぜなら、あまり平和でのんびりしていると、
「これでいいのか?これでは、進歩も何もないんじゃないか?こんなにサボってていいのか?」
と、焦りが出てくるからだ。
私に限らず、
「何かに向かって、進歩しよう。努力して向上しよう」
という意識が強い人ほど、「平和な時間」を「無駄な時間」と勘違いしやすいようだ。
こういう人間にとって、ほどほどの「平和な時間」ならば、
「たまにボーっとすると、英気を養えていいね」
と楽しめても、
「24時間365日、平和でポワンと過ごしている」
となると、たいがいは、不安と焦りでいっぱいになってくる。
そうなると、人は、無理矢理、
「時間ができたから、あれをしよう。これもしよう」
と、何か用事を作り出しては忙しくして、自ら「平和」を手放し始める。
用事が作れないときには、悩み事を作り出して、悩み事に没頭して、
なんとなく、一日を充実して過ごしたような気になって、満足する。
そして、ふと、一日を振り返ってみると、未来のことや過去のことをあれこれ考えていて、
実際には、何もしてない…ということも少なくなかったり。
人って、実は、「毎日、平和で幸せにのんびり暮らしたい」と言いながらも、
心の奥底でぱ、「平和」「幸せ」を怖がっているのかもねー。
「平和が続くこと」ほど、人を不安にさせることはないのかもしれないなー、
なんて、ふと思う今日この頃…。
あ・・・でも、こんなことを考えているうちは、私もまだ、「平和には浸りきってない」ってないかー。
ほんとに、平和でボーっとしてたら、うちのルナ子のように、何も考えないもんねー。
ルナ子「え、なあに?ルナ子のこと、呼んだ?」
純 「ルナ子ってば、いつも平和で、幸せいっぱいで、「今」を満喫してるよねー 実は、もしかして、悟りを開いてるー?」
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2004年7月12日 |
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先日、TVでこんな話を聞いた。
「生きるということは、旅に出るようなものだ。
住みなれた家を離れて、あなたはどんな旅をしたいと思って、生まれてきたのか。
どうせ旅に出たなら、宿に引きこもっていないで、少々危ない目に遭っても、
旅先でしかできない経験をしたほうがいいのかもしれない」
なるほど、そう考えると、「旅」を想定した心理テストをすることによって、
「その人が、何のために生まれてきて、どんな人生を送りたいと思っているのか」
ということを知ることができる…というのは、まんざらあたらずとも遠からずだなあ、と思った。
ちなみに、その心理テストというのは、こういうような問題。
「あなたは住み慣れた我が家を離れて、一人旅をすることになりました。
どんな旅を計画しますか?
行き先は? 何をもっていきますか? どんな体験をしたいですか?
どんなハプニングが待っていそうですか? 旅行先で友人を作りたいですか?
我が家に帰ってくるときに、誰に、何を土産に買って帰りますか?」
ちなみに、私の場合、あまり旅行が好きではない。
家にいるほうが好きだから、一人旅に出る気はさらさらない。だから、
「事故か何かに巻き込まれて、やむなく一人旅をせざるを得なくなった」
というパターンの出発だろうか。
そして、
「旅をしている途中で、いろいろ大変な思いをしている人に会い、
「そうかー、大変なのは私だけじゃない。誰しも大変な人生を抱えているんだなー。
じゃあ、どんな悲惨な状況におかれても、それでも、
「人生、こう考えれば、気持ちよく生きられる。こう対処すれば大丈夫」
と思えるくらい強くなってみよう・・・と決心する」
って感じかなあ。
そうすれば、「旅の最後まで家族と巡りあえなく」ても、あるいは、
「やっと家にたどり着いたら、家族が植物状態になっていて、
会話もできない状態になっていた」としても、希望がみつけられるかもしれない。
そして、「お互い無事に、巡り合えた」時には、喜びは、何十倍にも感じられるだろう。
・・・なーんて考えるのは、半分職業病のような感じだ。
そんなこんなを考えていたら、ふと、10数年前に、この手の心理テストを
たくさんやって記録に残していたことを思い出した。
なので、古い日記やら、記録やらを引っ張り出して読んでみることにした。
実は、10数年前、表面的にはなんとか普通に生活していたものの、
裏ではほとんど狂気に近い精神状態だった。
なので、我ながら日記を読み返すのが恐ろしくて、今までずっと封印していた。
でも、今回、思い切って読んでみたら、面白い発見があった。
まず第一に、何年経っても、自分自身の根本的な考え方は変わっていなかったこと。
20数年前の日記にも、精神的におかしかった時の日記にも、
今考えていることと同じようなことが、言葉を変えて書いてあるのにはびっくりした。
なので、あらためて、「心の奥で、一番大切に思っていることは、
子供のころから、ずっと変わらないのかもしれない」と思った。
第二に、「占い師の未来予想はほとんど当たらなかった」ということ。
私は自分でも占いをするが、一時期いろいろな占い師の話を
聞きに行ったこともある。その度に、「こんな鑑定結果だった」と、内容を書きとめておいた。
そのいずれも、「現在」については、当たっていることが多かったが、
「未来予想」に関しては、すべてはずれていた!
ただ、占いで、「いいことをいってもらう」ことで、「今日」を生き延びる手段にはなっていた。
そうかんがえると、結局、占いは、「当たる、当たらない」よりも、
「今日」を気持ちよく生きるための「援助手段」の役割ができれば十分なのだろう。
つまり、究極的に、いい占い師というのは、
「当たらなくても、今日を生きるために、一番いい未来の形を想像させてくれる人」
ってことになるのかもしれない。
逆に、ものすごく当たっていたのが、「心理テスト」の回答や、
夢ノートという形で書き留めておいた「未来予想図ノート」!
これは、具体的な内容は当たってなくても、未来に求めていた生活の
根底に流れるものは、しっかり叶っていた。
しかも、過去に予想していた形よりも、もっともっとより本質的で、
よりいい具体的な内容になって、叶っていた。
だから、占い師に見てもらうよりも、自分で、
「将来はこんな生活をしたい」
と、自分勝手な未来予想図を立てた方が、よほど、未来に実現性がある。
「すべての答えは、やはり、自分自身の中にある」んだねー。
余談ですが・・・。
日記を見ていたら、「人間関係を見つめ直したい人のためのグループダイナミックセミナー」
に参加したときの記録が出てきた。
このセミナー、すごくお勧めです!
私は、医学的なセミナー、精神世界系のセミナーと、いろいろ首を突っ込んだことがあるが、
お値段、内容は、ピンからキリまで。
その中では、このセミナーが一番よかった。(人によって、好き好きはあると思うが)
講師の力量はすごいし、即、現実的に役立つ経験が得られる。
なにより、三泊四日で、宿泊施設もきれいで、3食食事付で、
こんなにいい体験ができて、5万8千円は良心的!
その時々のメンバーによって、体験できることには違いがあるようだが、私の時は、
「人間の集団というものは、こんなにそれぞれの個性が全く違う中で、
違いを認めながらも、こんなに全員が一体になれるものなのか」
という至福の体験ができた。
集団の中で、あれだけ一体感を味わえたのは、あのときが最高だったと思う。
たとえていえば、素晴らしいコンサートや舞台を見たときに、
会場全体が一つの気持ちになって高揚している感覚・・・の、
「お互いの気持ちが心の底からわかりあえた版」でしょうか?
このセミナーに興味のある人は、「日本臨床心理研究所 055-253-1855」へお問い合わせください。
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2004年7月26日 |
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先日、新聞で、「中絶胎児を切り刻んで一般ごみに捨てる」
という記事を読んで、考えさせられた。
私が研修を受けた病院の産婦人科の部長先生は、当時研修医だった私に、
「胎児といっても人には違いない。
人を殺す仕事に携わる人間は、少ないにこしたことはない。
だから、あなたには中絶の手術はさせません。
自然流産してしまった方の処置も、処置方法は同じですから、それを学んでください」
とおっしゃられた。
当時、この言葉にすごく感心し、
「この先生は本当に生まれてくる命を大切にしておられるんだ。
同じ、命を奪われるのなら、こういう先生の手で、命を終えられる子供はなんて幸せなことだろうか」
と思った。
と同時に思い出したのが、小学校、中学校、大学での解剖実習だった。
小学校ではフナ、中学校ではかえる、大学の時にはラットの解剖をした。
いずれも生きた教材を使い、実習後はゴミ箱行きだったはずだ。
子供ながら、生きている命を絶つことに疑問を感じ、先生に、
「なぜ、魚屋にいる死んだ魚を使っちゃいけないんですか?
どうして生きているのに、殺さなきゃいけないんですか?」
と聞いた。
たしか、返ってきた言葉は、
「生きているからこそ、浮き袋が膨らんだりするのがはっきり観察できる」
というような内容だったと思った。
大学のときは、もっと悲惨だった。
ラットが暴れるといけないので、尻尾をつかんで、脳天を机にぶつけて気絶させ、
死んだ直後の心臓の動いている状態を観察するのだ。
私は、動物を殺すのが怖くて怖くて、男子生徒にお願いして、ラットを気絶させてもらった。
その後しばらく、ネズミの集団に襲われて殺される夢を毎日見てうなされた。
悪夢を見るたびに、
「医者になるのに、どうしてこんなにたくさんの命を奪わなきゃいけないんだろう。
命を奪っているうちに、命を粗末にすることに慣れてしまうんじゃないだろうか?
一番命を大切にしなければならない職業につくものが、
こんなにたくさんの命を犠牲にして、育つなんて、どこか間違ってないだろうか?
こんなにたくさんの命を奪わなければ、医者になれないなら、医者にならなくてもいい」
と、思い悩んだものだ。
学校教育の場では、必死で、「命を大切に」と説く一方で、
こうした教育の矛盾があることに、大人は気がついていない。
大人たちの矛盾に、子供は敏感なものだ。本当の意味での命の教育が浸透して欲しいものだ。
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