ひまわり先生のひとりごと (2005年2月) |
2005年2月7日 |
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「神は世の中で、唯一の幸せな存在だった。でも、唯一で、幸せだったから、
「一つであること。幸せであること。神とは何か」がわからなかった。
神は自分を知りたいと思った。
そのため、天国と地上、神と人に分けた。
こうして、分離ができ、不幸ができ、神は「一つ。幸せ」を知ることができた」
いろいろな本や言い伝えなどの中によく登場する話である。
このため、人は、「神」にあこがれ、「悟り」を求めて生きるのだとか・・・。
ちなみに、お能ではこれに近い話に、「石橋(しゃっきょう)」という曲がある。
ストーリーはこんな感じ。
「文殊の浄土につながっている橋を僧が渡ろうとすると、橋の門番から止められる。
「この橋は、苔がびっしり生えて滑りやすく、上からは大滝が落ちてくる。
転げ落ちると下は千尋の谷。よほどの難行苦行を重ねた僧でなければ渡れない」
というのだ。そこで、僧は渡ることをあきらめた。すると、門番は、
「少しだけ、浄土の様子を見せてあげよう」
といって、獅子に変身して、浄土の美しい獅子舞を見せてくれた」
この話を聴いた私は、
「えー!獅子舞を見せてもらったくらいで、ごまかされてていいのかー!?
根性なしの坊さんだなー。素敵な浄土の様子を見せてもらったなら、
なおさら、がんばって修行して渡れよー。
門番に脅されたくらいで、ビビってるから、渡れないんだよー。
滝や苔や谷みたいな目の前の恐怖に心を揺るがされず、
心眼でしっかり浄土を見据えて、一歩一歩を確実に踏みしめるように歩いていけば、
渡れるじゃない!
万が一、谷に落ちて死んだら、死後の世界は想念の世界なんだから、
「私は浄土に行く途中だった」って思い出せば、行けるじゃないのっ!根性なし!!」
と、息巻いていたのだけれど・・・(こんな話を師匠にしたら、また、目を白黒されそう・・・)。
でも、よくよく考えてみたら、「石橋」を渡らないという選択もありかもしれない・・・
と、最近思う。
確かに、私自身は「生きながらにして、天国に住むとはどういうことか」
ということに興味があったので、「石橋」を渡るような人生を歩いてきた。
また、そうした人生がとても価値のあることのようにも思っていた。
でも、それは単に、私の「人生の好み」だったのかもしれない。
たとえば、知的障害を持った子供や痴呆にかかった人を見ていると、
「神」とか「悟り」とかとは、全く無縁で、ただ「100%の今の自分自身」
「ありのままの自分」を生きている。そういう姿を見ていると、
「もしかすると、こうした人々が一番、「神」や「悟り」に近いのかもしれない」
と感じるのだ。
難行苦行をして、「石橋」を渡ることは、一見立派に見える。
けれど、もしかすると、
「ちゃんと生きていれば、死んだらちゃんと浄土にいける。
だから、生きている間は、浄土のことなんて気にしないで、
端のこちら側の世界をしっかり堪能して、生きていこう」
という人生だって、とても立派なのではないだろうか。
「石橋」というストーリーにも、「人生」にも、「こうするのが正解」という答えはない。
ただ、「生きている(橋のこちら側にいる)」という事実があるだけだ。
苦労して橋を渡るもよし。橋のたもとにずっといるのもよし。
橋も浄土も知らずに生きるもよし。あるいは、好き勝手をして地獄を目指すのもよし?!
なんにせよ、自分らしい選択ができるといいよね。
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2005年2月14日 |
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弟一家がニューヨークに転勤になったため、
この一週間は引越しやら、出発準備やらで、何かとバタバタした。
そんな中で、いろいろ考えさせられることがあった。
弟は長男で末っ子なので、必要なことは何でも自力でやる一方で、頼り上手だ。
だから、空港までの道中でも、電車のホームや出発ゲートがわからなかったら、
さっさと係員に聞くし、荷物が多ければ、周りの人に遠慮なく手伝ってもらう。
ニューヨークでも、知り合ったばかりの近所の優しい日本人の老夫婦に
空港まで迎えにきてもらう段取りをつけてきたのだとか・・・。
私の場合、どうしても子供の頃から、
「なんでも、自分でやりなさい。やろうと思えば、なんだって自力でできるはず。
人にやってもらうことばかり考えるのは、あなたが怠け者だから」
と、厳しくしつけられてきたせいか、どうしても、できる限り自力で
がんばりにがんばってしまいがちだ。
それでも、昔よりは頼り上手になったものの、まだまだ、ギブアップ寸前になってから、
助けを求めることが多いかもしれない。
彼のように早いうちから、上手に、手助けしてもらうと、
人生ってなんてスムーズなんだろう、としみじみ感動した。
頼り上手な人から見れば、世の中には、至るところに助けの手はあるのだろう。
心が頑固になって、あまりにも、意固地にがんばりすぎると、
楽に生きる道を見過ごしてしまうかも・・・と、痛感。
でも、いろいろな自己啓発本や宗教の本などには、
「人から何かを注いでもらうことよりも、人に何かを注ぐことに専念しなさい」
と書いてあるので、がんばり屋ほど、こういう本を読むと、
「まだまだ、奉仕が足りない」
と思ってしまいがちだ。
でも、もともと、自分のことより人のことばかり考えて、
人に尽くしてしまうタイプの人間は、どちらかというと、
「人に頼ることで、人に奉仕すること」
を学ぶ必要があるかも・・・と思った一週間だった。
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2005年2月21日 |
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今年は、いつになく、周りでインフルエンザで倒れる人が多かった。
とくに、先々週から先週にかけてはピークで、そんなに多くない私の親しい交友関係でも
十数人が倒れて動けなくなっており、非常勤先の病院でも4人の医師が倒れていた。
ところで、熱が出るのは、体の中に溜まったエネルギーの汚れを
浄化する働きもあるとか。
そういえば、なんだか世間全体が浄化の流れがやってきているのか、
病院に来る人はもちろん、街を歩いている人たちも、「気」だか、
「波長」だかが相当乱れているような感じだった。
こういうときは、敏感な人ほど、できるだけ自分自身のメインテナンスをして、
状態を整えておかないと、相手の「気」に巻き込まれやすい。
私なども、カウンセリングという仕事をするときには、
一度、相手の「気」に完全に同調してから、浄化体制に入るので、
相手の「気」をもらいやすい。
なので、相当気をつけていたつもりだったのだが、いかんせん、
私の処理能力を上回る浄化量だったらしく、週末にはギブアップ。
まあ、無理すれば、動けないこともない状態だったのだけれど、
ここでがんばってしまうと、絶対に、「インフルエンザにかかるコース」に乗ってしまうと、
確信したので、しっかり、引きこもりを決めこんだ。
昔は、「倒れるまで動く」という生活だったが、「倒れる前に、休む」が
少しは身についてきたみたい。やはり、転ばぬ先の杖が、何事も肝心だ。
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